【感想】どもほるんりんくると坂道を登る なかはられいこ
- 2015/03/28
- 15:32
どもほるんりんくると坂道を登る なかはられいこ
*
M なかはられいこさんの一句です。ドモホルンリンクルっていうのは化粧品ですよね。
Y ええそうです。「お肌本来の力」に働きかける基礎化粧品です。お肌の根本力を引き出すために、ドモホルンリンクルには独自のステップがあります。自らの力でうるおうお肌を……
M もうだいじょうぶです、もうだいじょうぶですから。ええと、でもこの句で語り手は、ドモホルンリンクルの「お肌本来の力」に注目しているのではなく、どうもこのドモホルンリンクルの〈音〉の根本力そのものに注目しているらしいというのが、ひらがな表記からわかってきますよね。
Y そういえばたしかに、「どもほるんりんくる」と発声してみると、ひとやま越えたような感じになりますよね。なにか自分がひと仕事終えたような達成感があります。どもほるんりんくる
M ええそうですよね。ひらがな表記にするという行為には、そのことばが意味をはぎ取り、純粋な音に還元することによって、そのことばの〈物質性〉にたちあうという側面があるのかもしれません。
Y 意味がなくなるとことばって物々しくなってくるということですか?
M ええ。たとえば平等院鳳凰堂なんかはどうでしょう。
Y びょうどういんほうおうどう。たしかになんだかリビドーがわたしの底からわきあがってきたようなきがします。一仕事終えたようなものものしさが。せえれん・おおびえ・きるけごおる。おお。なるほどなあ。にゅうぎにあひめてんぐふるうつこおもり。うおお。なるほど。
M もうだいじょうぶです、だいじょうぶですから。でも、ひらがなってことばのものものしさを引き出してくるんですよね。だからたとえば笹井さんの有名な歌をここで思い出してみると、
えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい 笹井宏之
ここでは「えーえんとくちから」と「永遠解く力」が表記上対立しあっています。「とくちから」といいながら、語り手は〈ひらいたままの引力〉を保ちきれずに、漢字表記として閉じていってしまう、そんなベクトルをもつ歌のようにわたしは感じます。つまり「えーえんとくちから」とは、〈ひらがな表記で耐え抜くちから〉のようにも思うんですね。でも、ひとはそれでも〈意味〉を欲してしまうから。意味によって救われようとしてしまうから、〈えーえん〉よりも、いま手に入る〈永遠〉という意味が欲しいから、意味に回収されてしまう。なかはらさんの「どもほるんりんくる」からかんがえれば、そんな歌のようにも思えるんです。
Y そうか、そうかんがえると「どもほるんりんくる」の句と少し似通った構造といえるのかもしれないですね。「どもほるんりんくる」とけなげに、さわやかに、むじゃきに、発話できた瞬間、ひとの生には「坂道を登る」という意味の背負うべき重荷がくる。
M でもそれでも、「どもほるんりんくる」や「えーえんとくちから」を発見しつづけることが、ある意味、意味の重力のなかでそれでも飛翔するための翼になるのではないでしょうか。意味の無重力へととぶための。
Y ところでタイの首都バンコクの正式名称は?
M くるんてえぷまはあなこおんあもおんらったなこおしんまひんたらゆあったやあまはあでぃろっかぽっぷのっぱらっとらあちゃたあにいぶりいろむうどむらあちゃにうぇえと……
Y (…Mさん……)
*
なかはられいこさんから「いとこでも甘納豆でもなく桜 」にて次のていねいな句評をいただきました。ありがとうございました!
遠くから宗教的なキスをする 柳本々々
家族的と恋人的なキスの区別はできますが、宗教的って。
「ヨブ記」の句をひきずっていたので、旧約聖書的な、厳かで清々しいのを想像してしまいましたが、新興宗教的な、いかがわしい、あやしいかんじのものだって想像できますよね。
遠隔操作だし。いや、遠距離恋愛か。でもキスって近づかなければできないわけで。
地理的なものであれ、心情的なものであれ、「遠くから」というキスをするひととされるひとの距離感が、この句の要ではないでしょうか。
この文中にもいっぱい使いましたけど「○○的」って便利なことばなんですよね。
安易に使ってしまいがちな「的」のあやうさも提示されているのではないかと思います。
確信犯的に(笑)
なかはらさんの〈~的〉に関する指摘、ほんとにそうだと思いました。〈~的〉ということばは、アクセスしやすいことばで、〈わたし的には〉とか、〈文学的には〉などと、どんなことばでも接続できてしまう、便利な反面、リスキーな側面もある。
そういう接続過剰の状態があらわれてくることばとしてもあるのかなと思いました。
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M なかはられいこさんの一句です。ドモホルンリンクルっていうのは化粧品ですよね。
Y ええそうです。「お肌本来の力」に働きかける基礎化粧品です。お肌の根本力を引き出すために、ドモホルンリンクルには独自のステップがあります。自らの力でうるおうお肌を……
M もうだいじょうぶです、もうだいじょうぶですから。ええと、でもこの句で語り手は、ドモホルンリンクルの「お肌本来の力」に注目しているのではなく、どうもこのドモホルンリンクルの〈音〉の根本力そのものに注目しているらしいというのが、ひらがな表記からわかってきますよね。
Y そういえばたしかに、「どもほるんりんくる」と発声してみると、ひとやま越えたような感じになりますよね。なにか自分がひと仕事終えたような達成感があります。どもほるんりんくる
M ええそうですよね。ひらがな表記にするという行為には、そのことばが意味をはぎ取り、純粋な音に還元することによって、そのことばの〈物質性〉にたちあうという側面があるのかもしれません。
Y 意味がなくなるとことばって物々しくなってくるということですか?
M ええ。たとえば平等院鳳凰堂なんかはどうでしょう。
Y びょうどういんほうおうどう。たしかになんだかリビドーがわたしの底からわきあがってきたようなきがします。一仕事終えたようなものものしさが。せえれん・おおびえ・きるけごおる。おお。なるほどなあ。にゅうぎにあひめてんぐふるうつこおもり。うおお。なるほど。
M もうだいじょうぶです、だいじょうぶですから。でも、ひらがなってことばのものものしさを引き出してくるんですよね。だからたとえば笹井さんの有名な歌をここで思い出してみると、
えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい 笹井宏之
ここでは「えーえんとくちから」と「永遠解く力」が表記上対立しあっています。「とくちから」といいながら、語り手は〈ひらいたままの引力〉を保ちきれずに、漢字表記として閉じていってしまう、そんなベクトルをもつ歌のようにわたしは感じます。つまり「えーえんとくちから」とは、〈ひらがな表記で耐え抜くちから〉のようにも思うんですね。でも、ひとはそれでも〈意味〉を欲してしまうから。意味によって救われようとしてしまうから、〈えーえん〉よりも、いま手に入る〈永遠〉という意味が欲しいから、意味に回収されてしまう。なかはらさんの「どもほるんりんくる」からかんがえれば、そんな歌のようにも思えるんです。
Y そうか、そうかんがえると「どもほるんりんくる」の句と少し似通った構造といえるのかもしれないですね。「どもほるんりんくる」とけなげに、さわやかに、むじゃきに、発話できた瞬間、ひとの生には「坂道を登る」という意味の背負うべき重荷がくる。
M でもそれでも、「どもほるんりんくる」や「えーえんとくちから」を発見しつづけることが、ある意味、意味の重力のなかでそれでも飛翔するための翼になるのではないでしょうか。意味の無重力へととぶための。
Y ところでタイの首都バンコクの正式名称は?
M くるんてえぷまはあなこおんあもおんらったなこおしんまひんたらゆあったやあまはあでぃろっかぽっぷのっぱらっとらあちゃたあにいぶりいろむうどむらあちゃにうぇえと……
Y (…Mさん……)
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なかはられいこさんから「いとこでも甘納豆でもなく桜 」にて次のていねいな句評をいただきました。ありがとうございました!
遠くから宗教的なキスをする 柳本々々
家族的と恋人的なキスの区別はできますが、宗教的って。
「ヨブ記」の句をひきずっていたので、旧約聖書的な、厳かで清々しいのを想像してしまいましたが、新興宗教的な、いかがわしい、あやしいかんじのものだって想像できますよね。
遠隔操作だし。いや、遠距離恋愛か。でもキスって近づかなければできないわけで。
地理的なものであれ、心情的なものであれ、「遠くから」というキスをするひととされるひとの距離感が、この句の要ではないでしょうか。
この文中にもいっぱい使いましたけど「○○的」って便利なことばなんですよね。
安易に使ってしまいがちな「的」のあやうさも提示されているのではないかと思います。
確信犯的に(笑)
なかはらさんの〈~的〉に関する指摘、ほんとにそうだと思いました。〈~的〉ということばは、アクセスしやすいことばで、〈わたし的には〉とか、〈文学的には〉などと、どんなことばでも接続できてしまう、便利な反面、リスキーな側面もある。
そういう接続過剰の状態があらわれてくることばとしてもあるのかなと思いました。
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