【お知らせ】「第7回川柳カード合評会レポート こんにちは世界ですかあなたも世界です、あるいは、もしもし」『川柳カード8号』
- 2015/03/29
- 08:36
「あなたは一体、何しにここへ来たのだろう」「さあ、──風に吹かれて」 太宰治『ダス・ゲマイネ』
*
年末に行われた大阪での川柳カード合評会をレポートさせていただいた「第7回川柳カード合評会レポート こんにちは世界ですかあなたも世界です、あるいは、もしもし」を『川柳カード8号』に載せていただきました。
もしお手に取る機会がありましたら、お読みくださればさいわいです。
冒頭に太宰治の『ダス・ゲマイネ』を引用したのですが、たまたまその合評会のあった去年のクリスマスに、『ダス・ゲマイネ』を読んでいたんですね。
で、『ダス・ゲマイネ』っていうのは、ある意味、それぞれの世界をもった人間が、めいめいの世界の共通点をみいだせずに、すれちがい続ける話ともいえるんです。
たとえば引用した「あなたは一体、何しにここへ来たのだろう」「さあ、──風に吹かれて」というのも、世界観と世界観はすりあわされず、スルーされています。
「なにしにきたの?」ときくと、「風に吹かれて」と答える。これは、答えていないわけです。
でも、じつは、世界ってそういうものなんじゃないかとも、おもうわけです。
これがわたしの世界です、といわれたら、それが〈世界〉なんです。
それは世界じゃないよ、とはいえないわけです。
たとえばわたしが通っていた大学の図書館では、なぜか太宰治の『ダス・ゲマイネ』にずっと『ネイマゲ・スダ』とラベルが貼られていた書架に置いてあったわけです。
なぜか勘違いされちゃってるわけです。
世界でたったひとつの太宰治の『ネイマゲ・スダ』がそこにあった。
でもそれも〈世界〉なわけです。
ねえねえと司書のひとにわたしがいいにいこうがいいにいくまいが、それは『ネイマゲ・スダ』の世界観をなしていた。
だから、じつは、世界観っていうのは、これが世界なんだよ、といわなくても、世界であるようなもの、なのです。
じゃあそのときに、題詠として「世界」が出てきたら、それはどういうことになるのか、いったいなにを詠むのか、なにが詠まれたのか、そんなことをかんがえながら、書いてみました。
少し今回のレポートから箇条書きで抜き出してみると、
・題自体が、詠まれおわったあとも、役目をおえずに、うごめき、いきづいている。
・わたしが世界を〈こう〉語ったときに、〈こうではない〉かたちであなたが世界を語ってもそれは世界である。要するに、世界とは、すべてでないこともふくめた、∀(いっさいがっさい)なのだ。
・今回の「世界」という題は、題をめぐる題であるような、メタ題ともいうべきだ。「世界」を題とすることは、題とはなんなのか、選とはなんなのか、題詠とはなんなのか、ジャンルの横断とはなんなのか、川柳とはなんなのか、《これ!》とはなんなのかの問いをどこまでも重ねてはらんでいかざるをえない問いをめぐる問いだったのである。題とはただ、「わたしを詠みなさい」と提示されるものだけでなく、「あなたがたに働きかけます。いいですね」という行為する題もあるのだ。
・世界を語ることも川柳を語ることも困難であり不可能なのだが、語りそこねることによって、〈ふりはば〉をたちあげ、わたしたちは、逆説的に世界や川柳にであうことが、できるのだ。
・世界とは、〈これ!〉ではない。世界とは、〈もしもし〉のことだ。
・わたしは今日、柳本だとも、おもう。だから、わたしは明日、原田だとも、おもう。
*
あ、これが私の創作だ。私の創った唯一の詩だ。なんというだらしなさ! 頭がわるいから駄目なんだ。だらしがないから駄目なんだ。ライト。爆音。星。葉。信号。風。あっ! 太宰治『ダス・ゲマイネ』
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年末に行われた大阪での川柳カード合評会をレポートさせていただいた「第7回川柳カード合評会レポート こんにちは世界ですかあなたも世界です、あるいは、もしもし」を『川柳カード8号』に載せていただきました。
もしお手に取る機会がありましたら、お読みくださればさいわいです。
冒頭に太宰治の『ダス・ゲマイネ』を引用したのですが、たまたまその合評会のあった去年のクリスマスに、『ダス・ゲマイネ』を読んでいたんですね。
で、『ダス・ゲマイネ』っていうのは、ある意味、それぞれの世界をもった人間が、めいめいの世界の共通点をみいだせずに、すれちがい続ける話ともいえるんです。
たとえば引用した「あなたは一体、何しにここへ来たのだろう」「さあ、──風に吹かれて」というのも、世界観と世界観はすりあわされず、スルーされています。
「なにしにきたの?」ときくと、「風に吹かれて」と答える。これは、答えていないわけです。
でも、じつは、世界ってそういうものなんじゃないかとも、おもうわけです。
これがわたしの世界です、といわれたら、それが〈世界〉なんです。
それは世界じゃないよ、とはいえないわけです。
たとえばわたしが通っていた大学の図書館では、なぜか太宰治の『ダス・ゲマイネ』にずっと『ネイマゲ・スダ』とラベルが貼られていた書架に置いてあったわけです。
なぜか勘違いされちゃってるわけです。
世界でたったひとつの太宰治の『ネイマゲ・スダ』がそこにあった。
でもそれも〈世界〉なわけです。
ねえねえと司書のひとにわたしがいいにいこうがいいにいくまいが、それは『ネイマゲ・スダ』の世界観をなしていた。
だから、じつは、世界観っていうのは、これが世界なんだよ、といわなくても、世界であるようなもの、なのです。
じゃあそのときに、題詠として「世界」が出てきたら、それはどういうことになるのか、いったいなにを詠むのか、なにが詠まれたのか、そんなことをかんがえながら、書いてみました。
少し今回のレポートから箇条書きで抜き出してみると、
・題自体が、詠まれおわったあとも、役目をおえずに、うごめき、いきづいている。
・わたしが世界を〈こう〉語ったときに、〈こうではない〉かたちであなたが世界を語ってもそれは世界である。要するに、世界とは、すべてでないこともふくめた、∀(いっさいがっさい)なのだ。
・今回の「世界」という題は、題をめぐる題であるような、メタ題ともいうべきだ。「世界」を題とすることは、題とはなんなのか、選とはなんなのか、題詠とはなんなのか、ジャンルの横断とはなんなのか、川柳とはなんなのか、《これ!》とはなんなのかの問いをどこまでも重ねてはらんでいかざるをえない問いをめぐる問いだったのである。題とはただ、「わたしを詠みなさい」と提示されるものだけでなく、「あなたがたに働きかけます。いいですね」という行為する題もあるのだ。
・世界を語ることも川柳を語ることも困難であり不可能なのだが、語りそこねることによって、〈ふりはば〉をたちあげ、わたしたちは、逆説的に世界や川柳にであうことが、できるのだ。
・世界とは、〈これ!〉ではない。世界とは、〈もしもし〉のことだ。
・わたしは今日、柳本だとも、おもう。だから、わたしは明日、原田だとも、おもう。
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あ、これが私の創作だ。私の創った唯一の詩だ。なんというだらしなさ! 頭がわるいから駄目なんだ。だらしがないから駄目なんだ。ライト。爆音。星。葉。信号。風。あっ! 太宰治『ダス・ゲマイネ』
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