【感想】前の日と同じ棺を買わされる 須藤しんのすけ
- 2014/05/24
- 14:23
前の日と同じ棺を買わされる 須藤しんのすけ
【n日-1の反復】
この須藤しんのすけさんの句はとても不思議な句だと思うんですが、どこにふしぎさがあるのかというと、「同じ棺を買わされる」というまったく同じ行為が反復されることによって、反復ではない場所に語り手がたどりついてしまっているのではないかというところにあるように思うんです。
たとえば田崎英明さんが『ジェンダー/セクシュアリティ』のなかで「同じひとつの出来事が反復される。しかし、その陰で、別な反復が、ときとして生じることがある。それは同一化をはらむ反復である(同じであることと同一化は真っ向から対立する)」と述べているんですが、ここではそのようなただたんに純粋に「同じこと」が反復されているわけではなく。「棺を買」うという「同じひとつの出来事が反復される」ことによって「別な反復」が生起しているようにおもうんです。それは「同一化」といった語り手がなんらかの対処をしなければならない反復です。
しかも語り手が「買わされる」と述べているように、ここでは語り手の主体性によって「棺を買」っているわけではなく、なんらかの超越的な主体から「買わされ」ている事態である、そうしたシステムのなかで「棺を買」っているということが大事なんじゃないかとおもうんです。
「前の日」という「n日-1」としての任意の反復として同じ事が繰り返され続けていることからもわかる通り、「n日-1」としての終わりのない連鎖のなかで「同じ棺」を買い続けてるようにおもえるんです。そうしたカフカの小説にみられるようなシステム内における〈受け身〉としての不条理のおもしろさもこの句にはあるようにおもいます。
ここでたとえばジンメルが『芸術哲学』で述べたつぎのことを思い出してみてもいいとおもいます。
おかしみとは、場面の意味からすればなにか生きたものが見えるべきはずなのに、そのとき眼にはいってくるのが機械的なものであるということにほかならないのである。われわれがよろめく人を笑うという不思議な事実のなかに、あの奇妙な二元がひそんでいる。つまり、たとえば目標を意識した人間の歩行のように霊活な超機械的な生の行為が、突然、抑制ならびに重力の純然たる力学に従うというわけである。あるいはまた、それ自身としては少しもおかしくはない人間の歩きかたや身ぶりも、ただそれを真似るとなにかおかしく思われるものであるが、この場合もまた、同じことの繰りかえしという機械論的な原理が、生きた個性的なものの上にあらわれるというわけなのである。もちろん、生きた個体はみずからこうした原理に反抗するのであるが、かかる原理とそのように外的に合致すると、滑稽な対照が生まれてくることになるのである。
ジンメル「アンリ・ベルグソン」『芸術哲学』
つまりここでジンメルが述べていることをかんたんにまとめてみるならば、ひとにまつわるおかしみというのは、ふいにみずからの生に侵入してくるような〈機械性〉によって生まれてくるものである、といっているのではないかとおもいます。そしてそうした〈機械性〉とは、「反復」が反復されることによって語り手がなんらかの変化を経験する「同一化」にあるのではないかとおもうのです。
そのようなところにこの句のおもしろさをわたしはかんじました。
ONE MORE TIME くさかんむりのまま眠る 須藤しんのすけ
【n日-1の反復】
この須藤しんのすけさんの句はとても不思議な句だと思うんですが、どこにふしぎさがあるのかというと、「同じ棺を買わされる」というまったく同じ行為が反復されることによって、反復ではない場所に語り手がたどりついてしまっているのではないかというところにあるように思うんです。
たとえば田崎英明さんが『ジェンダー/セクシュアリティ』のなかで「同じひとつの出来事が反復される。しかし、その陰で、別な反復が、ときとして生じることがある。それは同一化をはらむ反復である(同じであることと同一化は真っ向から対立する)」と述べているんですが、ここではそのようなただたんに純粋に「同じこと」が反復されているわけではなく。「棺を買」うという「同じひとつの出来事が反復される」ことによって「別な反復」が生起しているようにおもうんです。それは「同一化」といった語り手がなんらかの対処をしなければならない反復です。
しかも語り手が「買わされる」と述べているように、ここでは語り手の主体性によって「棺を買」っているわけではなく、なんらかの超越的な主体から「買わされ」ている事態である、そうしたシステムのなかで「棺を買」っているということが大事なんじゃないかとおもうんです。
「前の日」という「n日-1」としての任意の反復として同じ事が繰り返され続けていることからもわかる通り、「n日-1」としての終わりのない連鎖のなかで「同じ棺」を買い続けてるようにおもえるんです。そうしたカフカの小説にみられるようなシステム内における〈受け身〉としての不条理のおもしろさもこの句にはあるようにおもいます。
ここでたとえばジンメルが『芸術哲学』で述べたつぎのことを思い出してみてもいいとおもいます。
おかしみとは、場面の意味からすればなにか生きたものが見えるべきはずなのに、そのとき眼にはいってくるのが機械的なものであるということにほかならないのである。われわれがよろめく人を笑うという不思議な事実のなかに、あの奇妙な二元がひそんでいる。つまり、たとえば目標を意識した人間の歩行のように霊活な超機械的な生の行為が、突然、抑制ならびに重力の純然たる力学に従うというわけである。あるいはまた、それ自身としては少しもおかしくはない人間の歩きかたや身ぶりも、ただそれを真似るとなにかおかしく思われるものであるが、この場合もまた、同じことの繰りかえしという機械論的な原理が、生きた個性的なものの上にあらわれるというわけなのである。もちろん、生きた個体はみずからこうした原理に反抗するのであるが、かかる原理とそのように外的に合致すると、滑稽な対照が生まれてくることになるのである。
ジンメル「アンリ・ベルグソン」『芸術哲学』
つまりここでジンメルが述べていることをかんたんにまとめてみるならば、ひとにまつわるおかしみというのは、ふいにみずからの生に侵入してくるような〈機械性〉によって生まれてくるものである、といっているのではないかとおもいます。そしてそうした〈機械性〉とは、「反復」が反復されることによって語り手がなんらかの変化を経験する「同一化」にあるのではないかとおもうのです。
そのようなところにこの句のおもしろさをわたしはかんじました。
ONE MORE TIME くさかんむりのまま眠る 須藤しんのすけ
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の川柳感想