【短歌】毎日新聞・毎日歌壇・加藤治郎 選 2015年3月30日
- 2015/03/30
- 06:00
梅の香が満ちている午後「卒園のうた」を奏でるピアノ、ぽろぽろ 水野真由美
*
ときどき、最終回について、かんがえている。
たとえば、改札で、なにげなくてをふるひとのあのさよならが、最終回だったらどうしよう、とふりかえらずに、かんがえる。
最終回は世界にみちみちている。
でも、だれも、それが最終回かどうかなんて、わからない。
最終回はいつも事後的に、構造として、それしか知り得なかったかたちで、有無をいわさぬ形で、遅れてやってくるのだ。
あああれが、最終回だったんだと。終わりだったんだと。さいごのさよならだったんだと。
たとえば、わたしはまだ次の日もそのひとといっしょに食べることがあったかも知れないパフェについてかんがえる。
あのときは、まだそのひとと、来週もここにこうしてパフェをたべるんだろうと、かってにおもっていた。(終)のテロップがはいりそうになるのを、かきよけて、わたしは深いフラスコの底のようなところに落ち込んだ苺をとりだそうとしている。いちごは、つぎからつぎからへと出てくるのだから、まだそれは(続)だということが、わかる。
あなたもわらっている。いつもどおり、改札で別れる。あらら、あなたはわたしの傘をもっていってしまたね、とわたしはすこしおもうのだが、でもそれでもいいじゃないかと、おもう。
あなたもわたしも強風にあおられて、髪がぼさぼさのまま、てをふりあったけれど、でもまあそれもいいかと。
それは〈いつも〉のやりすごしのようにしか〈そのとき〉には感じられなかったから。
でも、そのあとにパフェの底にぬかるんでいたような構造が遅れてやってきて、わたしにはあのどうでもいいようなありふれた日常的ななんの技巧もないさよならがさいごのさよならだったんだということが、わかる。
あのときの強風が最終回だったし、パフェが最終回だったし、改札が最終回だったし、あなたの手の微弱なふりかたが最終回だったし、わたしの傘をもっていったあなたも最終回だったし、それに対してあららとつぶやいたそのあららさえも最終回だったんだと。
(終)は、構造として、遅れた気づきとして、やってくる。
終わったから(終)だとわかるのではなく、そこからさきに構造や物語がなくなっていたからこそ、わたしにもあなたにも、あのときのあらら以後が、いっさいがっさいの終わりとして、暗転したんだということが、わかる。
だから、小説は、いつも構造として、終わりがくる。
それは、その先にページがないものとして、やってくる。
終わったとわかるから、終わるわけではない。
その先が、なかったのだ。
気づきは、いつだって、遅れて、やってくる。
だから、ことばも、遅れてやってくる。
あなたにいうべきことばは、いつも遅れてしまう。
だから、意味をもてるようなことばをわたしはあなたになにひとつ投げかけられない。
ありふれていたはずの苺は、深い谷のような奥底に、ゆるやかな列をなして、いくつぶも、落ちていく。
でもそれら苺をすべて見届けるそのまえに、(終)はようしゃなく、わたしとあなたのあいだに入ってくるのだから、
小説の末尾でふいにきみと逢うぼくたちはもうおしまいなん(終) 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇・加藤治郎 選 2015年3月30日)
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ときどき、最終回について、かんがえている。
たとえば、改札で、なにげなくてをふるひとのあのさよならが、最終回だったらどうしよう、とふりかえらずに、かんがえる。
最終回は世界にみちみちている。
でも、だれも、それが最終回かどうかなんて、わからない。
最終回はいつも事後的に、構造として、それしか知り得なかったかたちで、有無をいわさぬ形で、遅れてやってくるのだ。
あああれが、最終回だったんだと。終わりだったんだと。さいごのさよならだったんだと。
たとえば、わたしはまだ次の日もそのひとといっしょに食べることがあったかも知れないパフェについてかんがえる。
あのときは、まだそのひとと、来週もここにこうしてパフェをたべるんだろうと、かってにおもっていた。(終)のテロップがはいりそうになるのを、かきよけて、わたしは深いフラスコの底のようなところに落ち込んだ苺をとりだそうとしている。いちごは、つぎからつぎからへと出てくるのだから、まだそれは(続)だということが、わかる。
あなたもわらっている。いつもどおり、改札で別れる。あらら、あなたはわたしの傘をもっていってしまたね、とわたしはすこしおもうのだが、でもそれでもいいじゃないかと、おもう。
あなたもわたしも強風にあおられて、髪がぼさぼさのまま、てをふりあったけれど、でもまあそれもいいかと。
それは〈いつも〉のやりすごしのようにしか〈そのとき〉には感じられなかったから。
でも、そのあとにパフェの底にぬかるんでいたような構造が遅れてやってきて、わたしにはあのどうでもいいようなありふれた日常的ななんの技巧もないさよならがさいごのさよならだったんだということが、わかる。
あのときの強風が最終回だったし、パフェが最終回だったし、改札が最終回だったし、あなたの手の微弱なふりかたが最終回だったし、わたしの傘をもっていったあなたも最終回だったし、それに対してあららとつぶやいたそのあららさえも最終回だったんだと。
(終)は、構造として、遅れた気づきとして、やってくる。
終わったから(終)だとわかるのではなく、そこからさきに構造や物語がなくなっていたからこそ、わたしにもあなたにも、あのときのあらら以後が、いっさいがっさいの終わりとして、暗転したんだということが、わかる。
だから、小説は、いつも構造として、終わりがくる。
それは、その先にページがないものとして、やってくる。
終わったとわかるから、終わるわけではない。
その先が、なかったのだ。
気づきは、いつだって、遅れて、やってくる。
だから、ことばも、遅れてやってくる。
あなたにいうべきことばは、いつも遅れてしまう。
だから、意味をもてるようなことばをわたしはあなたになにひとつ投げかけられない。
ありふれていたはずの苺は、深い谷のような奥底に、ゆるやかな列をなして、いくつぶも、落ちていく。
でもそれら苺をすべて見届けるそのまえに、(終)はようしゃなく、わたしとあなたのあいだに入ってくるのだから、
小説の末尾でふいにきみと逢うぼくたちはもうおしまいなん(終) 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇・加藤治郎 選 2015年3月30日)
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