第二次ショートケーキ遠征のときのこと(あるいは安福望さんのこと)
- 2015/04/01
- 23:41
ぽぽぽぽぽ太陽を甘露煮に 江口ちかる
*
江口ちかるさんが安福望さんの絵について書かれていた。
すきなひとのすきなひとの / 安福望さん
わたしも安福さんの絵をみていてなつかしさというか記憶の日溜まりのようなあたたかさを感じることがあるのだが、もしかしたら自分にとってそれは食べ物のまるみや色やかたち、食べ物の記憶かなあとちょっとおもったりもした。
わたしは幼いころ、こんなふうに食べ物のかたちや色や質感をみていたはずなのに、それを〈忘れる〉ことで、情報としての食べ物、たべるためのたべものの方に眼をむけていたのではないか。
学ぶことは、わすれることだ。
でも、安福さんの絵のなかのたべものは、たべものがたべものであるようなたべものとして描かれている。
それは、情報として流通されるためのたべものでなく、語られるためのたべものでなく、おいしさを記述するためのたべものでもなく、だれかと仲良くなるための共有すべきたべものでもなく、わたしがはじめてたべものに出会ったときのまだたべものについてわたしが支配するまえの、あの〈たべもの〉なのだ。
それはかたちであり、色であり、質感だ。
だから、安福さんの絵では、〈たべもの〉がたべられるものというよりは、生きられる場所、演じられるステージとして描かれている。
それは、まず、〈場所〉なのだ。
たべられ、消費されるためのたべものではない。
生きられ、暮らすための、場所なのだ。
わたしもたしかにポッキーの森をさまよったことがある。
ショートケーキのなかをほりすすんでいたこともある。
でも、わすれてしまっている。
わすれて、たべものを、語ろうとするにんげんになってしまっている。
八天堂のとろけるチョココロネはおいしいよ、などと語っている。
でも、その語られるまえの〈たべもの〉を安福さんの絵はわすれていない。
安福さんの絵がわたしの記憶をなでてくるのは、そういったところからだと、おもう。
あの日、わたしはショートケーキのなかを掘り進んでいた。
誰かが、落盤するぞー! と後方で叫ぶのがわかった。
わたしは必死になにかにすがりつこうとし、そこに落ちていた苺にしがみついた。スポンジやクリームがばたばたと落ちてくる。甘い香りにつつまれて、わたしはまっくらのなか、ケーキのなかで、うずくまってる。
*
江口ちかるさんが安福望さんの絵について書かれていた。
すきなひとのすきなひとの / 安福望さん
わたしも安福さんの絵をみていてなつかしさというか記憶の日溜まりのようなあたたかさを感じることがあるのだが、もしかしたら自分にとってそれは食べ物のまるみや色やかたち、食べ物の記憶かなあとちょっとおもったりもした。
わたしは幼いころ、こんなふうに食べ物のかたちや色や質感をみていたはずなのに、それを〈忘れる〉ことで、情報としての食べ物、たべるためのたべものの方に眼をむけていたのではないか。
学ぶことは、わすれることだ。
でも、安福さんの絵のなかのたべものは、たべものがたべものであるようなたべものとして描かれている。
それは、情報として流通されるためのたべものでなく、語られるためのたべものでなく、おいしさを記述するためのたべものでもなく、だれかと仲良くなるための共有すべきたべものでもなく、わたしがはじめてたべものに出会ったときのまだたべものについてわたしが支配するまえの、あの〈たべもの〉なのだ。
それはかたちであり、色であり、質感だ。
だから、安福さんの絵では、〈たべもの〉がたべられるものというよりは、生きられる場所、演じられるステージとして描かれている。
それは、まず、〈場所〉なのだ。
たべられ、消費されるためのたべものではない。
生きられ、暮らすための、場所なのだ。
わたしもたしかにポッキーの森をさまよったことがある。
ショートケーキのなかをほりすすんでいたこともある。
でも、わすれてしまっている。
わすれて、たべものを、語ろうとするにんげんになってしまっている。
八天堂のとろけるチョココロネはおいしいよ、などと語っている。
でも、その語られるまえの〈たべもの〉を安福さんの絵はわすれていない。
安福さんの絵がわたしの記憶をなでてくるのは、そういったところからだと、おもう。
あの日、わたしはショートケーキのなかを掘り進んでいた。
誰かが、落盤するぞー! と後方で叫ぶのがわかった。
わたしは必死になにかにすがりつこうとし、そこに落ちていた苺にしがみついた。スポンジやクリームがばたばたと落ちてくる。甘い香りにつつまれて、わたしはまっくらのなか、ケーキのなかで、うずくまってる。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々のあとがき