【お知らせ】「ねむるねむる『渡辺のわたし』 斉藤斎藤のねむりかた」『かばん』2015年4月
- 2015/04/12
- 12:42
『かばん』2015年4月号に「ねむるねむる『渡辺のわたし』 斉藤斎藤のねむりかた」を載せていただきました。
もしお手にとる機会などございましたときにお読みいただければさいわいです。
斉藤さんの歌集『渡辺のわたし』をこれまでにいちどめは〈わたし〉をめぐる視点から(短歌研究評論賞)、にどめは〈愛〉をめぐる視点から(抒情文芸)、かんがえているのですが、今回は〈ねむり〉という視点からかんがえてみました。
斉藤さんの歌集の語り手は、どうも、よく、〈ねむる〉ようなんですね。
でも、それが、ただの〈ねむり〉ではないらしい。
どうもそれは語り手の、ことばや語法、意識やわたしのありかたに変節をおよぼすのが、この『渡辺のわたし』における〈ねむり〉らしいんですね。
文章からすこし抜き出してみると、
・語り手が〈ねむり〉を詠んでいる短歌を抜き出してみたが、こうして並べてみることでひとつわかってくるのは、〈ねむり〉が語り手の意識を転換するための装置になっているということである。
・〈ねむり〉という装置は、短歌における〈わたし〉としての主体を〈わたし〉として従順に沿いながらも〈わたし〉をそのまま〈他者化〉する装置として機能しているのではないか。〈ねむり〉によって、〈わたし〉は、〈わたし〉から差異化され、微分化され、枝分かれした〈わたし〉に出会う。
・〈わたし〉の〈内部〉としての〈外部〉から〈わたし〉を分節=節合する働きが〈ねむり〉なのである。なぜなら〈ねむる〉のはいつもこの〈わたし〉にほかならず、〈わたし〉は他者のねむりをねむることはできないから。
・「あなたと歩くこの夢」をみる主体と「覚め」る「あなた」の主体は両立することができないところにこのよくねむる語り手の〈ねむる〉ことに対する孤独がある。〈ねむり〉によって〈わたし〉の意識は孤独を強いられ、他者との厳格な懸隔のまえにまどろみつつも屹立される。
・この歌集の最後は、『渡辺のわたし』という〈わたし〉化プロジェクトがついに統合できないまま、むしろ挫折し、分割されることをその目途としていたかのように、次のような歌でしめくくられている。もちろん、ねむる。
ちょっとどうかと思うけれどもわたくしにわたしをよりそわせてねむります 斉藤斎藤
ちなみにこの〈ねむる〉という行為は、短歌史のなかでけっこう重要な主題となって近代の石川啄木から、もしくはもっといえば、『万葉集』からずっと続いてるテーマなんじゃないかとおもうんですね。
短詩って、すぐ〈終わる〉わけです。すぐ〈終わる〉のに、短い形式なのに、〈長い〉のが短詩なんですね。
夢もですね。すぐ〈終わる〉わけです。わたしたちが夢を見たというときは、夢は終わっている。気づくと終わってるわけです。だから形式としては短いんだけれど、でもわたしたちは夢にたいして距離をもちこみ、それを物語化しますよね。
短詩と夢はじつは構造が似ているんじゃないかとおもうのです。
それでは、また、いつかのだれかの夢でお逢いいたしましょう!
もしお手にとる機会などございましたときにお読みいただければさいわいです。
斉藤さんの歌集『渡辺のわたし』をこれまでにいちどめは〈わたし〉をめぐる視点から(短歌研究評論賞)、にどめは〈愛〉をめぐる視点から(抒情文芸)、かんがえているのですが、今回は〈ねむり〉という視点からかんがえてみました。
斉藤さんの歌集の語り手は、どうも、よく、〈ねむる〉ようなんですね。
でも、それが、ただの〈ねむり〉ではないらしい。
どうもそれは語り手の、ことばや語法、意識やわたしのありかたに変節をおよぼすのが、この『渡辺のわたし』における〈ねむり〉らしいんですね。
文章からすこし抜き出してみると、
・語り手が〈ねむり〉を詠んでいる短歌を抜き出してみたが、こうして並べてみることでひとつわかってくるのは、〈ねむり〉が語り手の意識を転換するための装置になっているということである。
・〈ねむり〉という装置は、短歌における〈わたし〉としての主体を〈わたし〉として従順に沿いながらも〈わたし〉をそのまま〈他者化〉する装置として機能しているのではないか。〈ねむり〉によって、〈わたし〉は、〈わたし〉から差異化され、微分化され、枝分かれした〈わたし〉に出会う。
・〈わたし〉の〈内部〉としての〈外部〉から〈わたし〉を分節=節合する働きが〈ねむり〉なのである。なぜなら〈ねむる〉のはいつもこの〈わたし〉にほかならず、〈わたし〉は他者のねむりをねむることはできないから。
・「あなたと歩くこの夢」をみる主体と「覚め」る「あなた」の主体は両立することができないところにこのよくねむる語り手の〈ねむる〉ことに対する孤独がある。〈ねむり〉によって〈わたし〉の意識は孤独を強いられ、他者との厳格な懸隔のまえにまどろみつつも屹立される。
・この歌集の最後は、『渡辺のわたし』という〈わたし〉化プロジェクトがついに統合できないまま、むしろ挫折し、分割されることをその目途としていたかのように、次のような歌でしめくくられている。もちろん、ねむる。
ちょっとどうかと思うけれどもわたくしにわたしをよりそわせてねむります 斉藤斎藤
ちなみにこの〈ねむる〉という行為は、短歌史のなかでけっこう重要な主題となって近代の石川啄木から、もしくはもっといえば、『万葉集』からずっと続いてるテーマなんじゃないかとおもうんですね。
短詩って、すぐ〈終わる〉わけです。すぐ〈終わる〉のに、短い形式なのに、〈長い〉のが短詩なんですね。
夢もですね。すぐ〈終わる〉わけです。わたしたちが夢を見たというときは、夢は終わっている。気づくと終わってるわけです。だから形式としては短いんだけれど、でもわたしたちは夢にたいして距離をもちこみ、それを物語化しますよね。
短詩と夢はじつは構造が似ているんじゃないかとおもうのです。
それでは、また、いつかのだれかの夢でお逢いいたしましょう!
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