【川柳】鍵盤をめくってみればやわらかい
- 2014/05/26
- 08:04
鍵盤をめくってみればやわらかい 柳本々々
『おかじょうき』2014年5月号
【めくれば、あふれる、なにか】
以前、なかはられいこさんの「http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-51.html" title="【感想】回線はつながりました 夜空です">【感想】回線はつながりました 夜空です」という句について感想を書いてみたことがあるのですが、そのなかはられいこさんがご自身のブログ『そらとぶうさぎ』において私の句の評を書いてくださいました(参照:「夕日、鍵盤、しじまの袋 」)。
なかはらさんのことばを少し引用させていただくと、
「鍵盤」をめくるという発想+「やわらかい」という認識。
んなバカな。と、言い切れない「なにか」、がここにはあって、その「なにか」をつきつめてゆくことが、書くということや、読むということなんではないかと、思ったりしました。
なかはらさんからいただいたことばを自分なりにあらためて考えて思ったんですが、なかはらさんのおっしゃった「言い切れない『なにか』」というのをめぐって自分は川柳や短歌をつくっているのかもしれないなと思うんです。そしてその「なにか」にはたしかに「書くということや、読むということ」をめぐる独特の磁場があるのではないかと。
川柳や短歌というのは〈すぐ終わる〉文芸様式です。これはけっこう驚くべきことなんではないかと思っていて、たいてい、表現が始発すれば、その始発からこれからの文脈や意味の枠組みをつくりつつ、物語空間を読み手も形成していくと思うんですが(小説も映画もマンガも)、川柳や短歌の場合、発話しはじめたその瞬間に、すでに読み手も〈終わり〉を意識しています。つまり、始まりがもうすでに終わりの意味生成として機能してるんだと思うんです。たとえば上の句では「鍵盤を」の上五でもうその「鍵盤」がどうなっていくかという〈終わり〉が胚胎しています。でもそれだけすぐに〈終わり〉がくるということは同時にその〈終わり〉が〈始まり〉に回帰していくような構造をもちあわせてもいるとおもうんです。575といったきわめて短い形式は、繰り返されることにその特性があり、〈終わり〉と〈始まり〉が相互に置換されつつ、交通しあっている。だから、意味生成が読むたびに変わっていく、というようなところがあるのではないかと思うんです。「やわらかい」という下五からすぐに始まりの「鍵盤を」に回帰する。そうすると、なかはらさんのことばの「んなバカな」になる。その「んなバカな」という回帰からの意味生成に、書いても書いても、むしろ書けば書くほど逃げていってしまうような「なにか」の一端があるのではないかと思っています。
これは小説や映画やマンガといったある一定の長さをもった表現様式とは少し違うのではないかと。そうした時間意識からくる独特の意味生成の磁場が川柳や短歌にあるような気がしています。
この句は、むさしさんからも評を書いていただいていて、「鍵盤楽器の下には演奏者の柔らかさが横たわっている」と書いていただきました。むさしさんのことばを読んで、鍵盤とはそうした「演奏者」との関数的存在であり、この句にはすでに「演奏者」が内在していたんだなあ、と思いました。そうした川柳にまつわる、〈いったい誰が・どこから・どう〉この句の表現内容とかかわって、どういった磁場のなかでこの句の表現形式として立ち上げたのかも「言い切れない『なにか』」をめぐる一環なのではないかとおもっています。
最後になりますが、なかはられいこさん、むさしさん、ありがとうございました。
傘立てをずらすと過去へ抜ける道 なかはられいこ
ド・マンは、人間が主観的にどう思っていようと、言葉で書く限り、そう思ったこととは違った意味を不可避的に持ってしまうということを、執拗に示そうとした。
柄谷行人『インタヴューズ1977-2001』
『おかじょうき』2014年5月号
【めくれば、あふれる、なにか】
以前、なかはられいこさんの「http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-51.html" title="【感想】回線はつながりました 夜空です">【感想】回線はつながりました 夜空です」という句について感想を書いてみたことがあるのですが、そのなかはられいこさんがご自身のブログ『そらとぶうさぎ』において私の句の評を書いてくださいました(参照:「夕日、鍵盤、しじまの袋 」)。
なかはらさんのことばを少し引用させていただくと、
「鍵盤」をめくるという発想+「やわらかい」という認識。
んなバカな。と、言い切れない「なにか」、がここにはあって、その「なにか」をつきつめてゆくことが、書くということや、読むということなんではないかと、思ったりしました。
なかはらさんからいただいたことばを自分なりにあらためて考えて思ったんですが、なかはらさんのおっしゃった「言い切れない『なにか』」というのをめぐって自分は川柳や短歌をつくっているのかもしれないなと思うんです。そしてその「なにか」にはたしかに「書くということや、読むということ」をめぐる独特の磁場があるのではないかと。
川柳や短歌というのは〈すぐ終わる〉文芸様式です。これはけっこう驚くべきことなんではないかと思っていて、たいてい、表現が始発すれば、その始発からこれからの文脈や意味の枠組みをつくりつつ、物語空間を読み手も形成していくと思うんですが(小説も映画もマンガも)、川柳や短歌の場合、発話しはじめたその瞬間に、すでに読み手も〈終わり〉を意識しています。つまり、始まりがもうすでに終わりの意味生成として機能してるんだと思うんです。たとえば上の句では「鍵盤を」の上五でもうその「鍵盤」がどうなっていくかという〈終わり〉が胚胎しています。でもそれだけすぐに〈終わり〉がくるということは同時にその〈終わり〉が〈始まり〉に回帰していくような構造をもちあわせてもいるとおもうんです。575といったきわめて短い形式は、繰り返されることにその特性があり、〈終わり〉と〈始まり〉が相互に置換されつつ、交通しあっている。だから、意味生成が読むたびに変わっていく、というようなところがあるのではないかと思うんです。「やわらかい」という下五からすぐに始まりの「鍵盤を」に回帰する。そうすると、なかはらさんのことばの「んなバカな」になる。その「んなバカな」という回帰からの意味生成に、書いても書いても、むしろ書けば書くほど逃げていってしまうような「なにか」の一端があるのではないかと思っています。
これは小説や映画やマンガといったある一定の長さをもった表現様式とは少し違うのではないかと。そうした時間意識からくる独特の意味生成の磁場が川柳や短歌にあるような気がしています。
この句は、むさしさんからも評を書いていただいていて、「鍵盤楽器の下には演奏者の柔らかさが横たわっている」と書いていただきました。むさしさんのことばを読んで、鍵盤とはそうした「演奏者」との関数的存在であり、この句にはすでに「演奏者」が内在していたんだなあ、と思いました。そうした川柳にまつわる、〈いったい誰が・どこから・どう〉この句の表現内容とかかわって、どういった磁場のなかでこの句の表現形式として立ち上げたのかも「言い切れない『なにか』」をめぐる一環なのではないかとおもっています。
最後になりますが、なかはられいこさん、むさしさん、ありがとうございました。
傘立てをずらすと過去へ抜ける道 なかはられいこ
ド・マンは、人間が主観的にどう思っていようと、言葉で書く限り、そう思ったこととは違った意味を不可避的に持ってしまうということを、執拗に示そうとした。
柄谷行人『インタヴューズ1977-2001』
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