【感想】君に話したおおげさなこと、飛び蹴りのこと、「花です」のこと、妖精と酢豚のこと。
- 2015/04/20
- 06:02
突然の光の中に立った君おおげさなことしなくていいよ 杉本華代子
【そのとびげりを妖精が見ている】
きょうの加藤治郎さん選の毎日歌壇からの一首です。
Amazonでよく本を買っているとこれもどうですか、この本読んでいるんだったらこんな本もあなたお好きなんじゃないですかっていわれることありますよね。
それとおなじように、短歌にも実はあわせて読んでみたい短歌があるんじゃないか、と時々おもったりするんですね。
たとえばうえの杉本さんの歌。
光の中に君が突然立ってしまう。
だからといって、別におおげさなことしなくていいよ、と語り手が反転してしまう。たぶん短歌では「光」というのは特権的でダイナミックな空間や場所をたちあげるものとして使われてきていると思うので(たぶん古くは『古今集』から)、その光を反転させる〈ヌケ〉感がおもしろいところだとおもいます。
で、ですね。この光の歌に、こんな光の歌を〈合わせて読んでみたい〉とおもうんですね。
飛び蹴りを誰かにきめてやりたくて光のなかへ出でてゆきたり 田村元
これはこれから光のなかでとびげりする歌ですよね。光のなかだからこそ、とびげりを誰かにきめられるというむしろ光のなかでの〈おおげさ感〉をダイナミックに活かした歌だとおもうんですよね。かんがえてみると、暗闇であんまりとびげりしないですよね。闇討ちであんまりとびげりって聞いたことない。とびげりっていえばひかりなんだと気がついてしまっているのもこの歌の特徴だとおもいます。まっくらのなかではひとはとびげりはしないんだよ、と。
こんなふうに〈光とおおげさ〉をめぐって合わせて短歌を読んでみるとわかってくるのは、実は短歌と短歌っていうのは共鳴しあいながらそれぞれのテーマをたえずそのつど生成しているということではないかとおもうんですね。そしてそれは短歌と短歌だけでなく、短詩の間でジャンルを越えてもありうるのではないか。
またきょうの毎日歌壇から一首あげてみます。
「花です」と言い張っている中身だけ抜かれた財布が地に張り付いて 小坂井大輔
この〈主張〉感ですね。「花です」と根拠はわからないけれど「言い張っている」。たぶんでもそれは「花です」という感じがする。〈財布にとっては〉「花」なんですね。これは無根拠で、〈そう〉としかいうしかない。ふつうの日常会話ではたぶんこれはできないんです。あぶないひとだと思われてとりおさえられてしまう。だけれども、定型だと〈無根拠のタフネス〉が通じてしまう。それを活かした歌なんじゃないかとおもうんです。定型のなかでは実は自信をもって主張してみると意外に通じてしまうことがあるという(それは実は定型のこわい側面も浮き彫りにしている)。
で、この小坂井さんの歌とあわせてみたい川柳がつぎの石田さんの句です。
妖精は酢豚に似ている絶対似ている 石田柊馬
〈無根拠〉なんですね。とくに二回も繰り返しているから、ちょっとあやしいんです。語り手はじぶんで「絶対」といいながら、じぶんじしんを信じきれていないんじゃないかともおもう。でも、定型だから〈通じ〉てしまう。「妖精は酢豚に似ている」んです。定型ってじつは〈あぶない〉言述の装置なんじゃないかということもたぶんこの句は指摘している。
こんなふうにあえて合わせて読んでみると、その歌や句がもっているテーマとはすこし別のテーマがもういちどちがったかたちで共鳴しあいながら浮かび上がってくることがあるんじゃないかなっておもうんです。
人生でたびたびであう、とびげりや妖精ってじつはそんなところに、それ自体じゃなくて、なにかに共鳴したり、なにかと通い合ったりしてしまったときにあらわれるんじゃないか。
すばらしいことがふいにやつぎばやに訪れてしまって、たいへんにうれしくなってしまって、意味もなく、おおげさに、むだに、あなたが、ひかりのなかでとびげりをしてしまう。そのとき、そのとびげりを酢豚に似た妖精と「花です」と主張する財布がじっと見ている。それが〈定型〉という発話装置を共有する〈短詩〉なのではないかと。
手を繋ぎ「サラダ」は「サラダ」抱き合いて「サラダ」は「サダラ」になっていた時間 千葉楓子
(サダラ…)
【そのとびげりを妖精が見ている】
きょうの加藤治郎さん選の毎日歌壇からの一首です。
Amazonでよく本を買っているとこれもどうですか、この本読んでいるんだったらこんな本もあなたお好きなんじゃないですかっていわれることありますよね。
それとおなじように、短歌にも実はあわせて読んでみたい短歌があるんじゃないか、と時々おもったりするんですね。
たとえばうえの杉本さんの歌。
光の中に君が突然立ってしまう。
だからといって、別におおげさなことしなくていいよ、と語り手が反転してしまう。たぶん短歌では「光」というのは特権的でダイナミックな空間や場所をたちあげるものとして使われてきていると思うので(たぶん古くは『古今集』から)、その光を反転させる〈ヌケ〉感がおもしろいところだとおもいます。
で、ですね。この光の歌に、こんな光の歌を〈合わせて読んでみたい〉とおもうんですね。
飛び蹴りを誰かにきめてやりたくて光のなかへ出でてゆきたり 田村元
これはこれから光のなかでとびげりする歌ですよね。光のなかだからこそ、とびげりを誰かにきめられるというむしろ光のなかでの〈おおげさ感〉をダイナミックに活かした歌だとおもうんですよね。かんがえてみると、暗闇であんまりとびげりしないですよね。闇討ちであんまりとびげりって聞いたことない。とびげりっていえばひかりなんだと気がついてしまっているのもこの歌の特徴だとおもいます。まっくらのなかではひとはとびげりはしないんだよ、と。
こんなふうに〈光とおおげさ〉をめぐって合わせて短歌を読んでみるとわかってくるのは、実は短歌と短歌っていうのは共鳴しあいながらそれぞれのテーマをたえずそのつど生成しているということではないかとおもうんですね。そしてそれは短歌と短歌だけでなく、短詩の間でジャンルを越えてもありうるのではないか。
またきょうの毎日歌壇から一首あげてみます。
「花です」と言い張っている中身だけ抜かれた財布が地に張り付いて 小坂井大輔
この〈主張〉感ですね。「花です」と根拠はわからないけれど「言い張っている」。たぶんでもそれは「花です」という感じがする。〈財布にとっては〉「花」なんですね。これは無根拠で、〈そう〉としかいうしかない。ふつうの日常会話ではたぶんこれはできないんです。あぶないひとだと思われてとりおさえられてしまう。だけれども、定型だと〈無根拠のタフネス〉が通じてしまう。それを活かした歌なんじゃないかとおもうんです。定型のなかでは実は自信をもって主張してみると意外に通じてしまうことがあるという(それは実は定型のこわい側面も浮き彫りにしている)。
で、この小坂井さんの歌とあわせてみたい川柳がつぎの石田さんの句です。
妖精は酢豚に似ている絶対似ている 石田柊馬
〈無根拠〉なんですね。とくに二回も繰り返しているから、ちょっとあやしいんです。語り手はじぶんで「絶対」といいながら、じぶんじしんを信じきれていないんじゃないかともおもう。でも、定型だから〈通じ〉てしまう。「妖精は酢豚に似ている」んです。定型ってじつは〈あぶない〉言述の装置なんじゃないかということもたぶんこの句は指摘している。
こんなふうにあえて合わせて読んでみると、その歌や句がもっているテーマとはすこし別のテーマがもういちどちがったかたちで共鳴しあいながら浮かび上がってくることがあるんじゃないかなっておもうんです。
人生でたびたびであう、とびげりや妖精ってじつはそんなところに、それ自体じゃなくて、なにかに共鳴したり、なにかと通い合ったりしてしまったときにあらわれるんじゃないか。
すばらしいことがふいにやつぎばやに訪れてしまって、たいへんにうれしくなってしまって、意味もなく、おおげさに、むだに、あなたが、ひかりのなかでとびげりをしてしまう。そのとき、そのとびげりを酢豚に似た妖精と「花です」と主張する財布がじっと見ている。それが〈定型〉という発話装置を共有する〈短詩〉なのではないかと。
手を繋ぎ「サラダ」は「サラダ」抱き合いて「サラダ」は「サダラ」になっていた時間 千葉楓子
(サダラ…)
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌感想