【感想】生まれ変わったらたぶんあなたと暮らすけど生まれ変わりはないけど、どうも 山中千瀬
- 2015/04/21
- 01:13
生まれ変わったらたぶんあなたと暮らすけど生まれ変わりはないけど、どうも 山中千瀬
【〈どうも〉の時間論】
M 山中さんの一首ですね。
Y ときどきもし山中さんと同じクラスなら五十音順の名前並びでは山中さんわたしやぎもとの後ろに来るはずなので、クラス替えの当初は同じ班になるんじゃないかとおもってるんですよね。や行とかわ行ばかりが集まった班として。注射のときもうしろにいるんじゃないかって。
M ええ、ええ、まあ、そうでしょうね。はい、はい。ところでこの一首はどうでしたか。
Y さいしょはじめて見たとき泣けたんですよね。なんだ、とおもって。なんだこの眼から出てくる液体は!? ってゴーリキーの小説の登場人物みたいにめちゃくちゃにこぶしでめがしらをこすっていたんですが、どうも、なみだ、というらしかった。
M ええ、ええ。まあ、そうでしょう。はい、はい。これ、構造としては、「けど1」→「けど2」→「どうも」ってなってるように思うんですよね。二回「けど」の連続した反転とエクスキューズがあって、最後にとつぜん挿入される「どうも」で、それらの「けど」が〈遭遇〉として解消される。
Y あ、そうか。いまMさんの話をきいてちょっと理解したんですけど、これって〈来世〉→〈現世〉→〈いま・ここ〉っていう時間軸がぎゅーっと絞られていく過程の醍醐味がありますよね。まず、来世の話をする。「生まれ変わったらあなたと暮らすけど」。それから、現世の話。「生まれ変わりはないけど」。そして、さいごにいま・ここの遭遇。「どうも」。このどうもの直前の「、(読点)」がタイムリープとして機能しているようにもおもうな。それまでの時間軸をふっとばすものとして。来世や現世について語りながらも、でもそれらをたえずくつがえし、ひっくりかえし、〈いま〉としか感じられないようなドットとしての〈どうも〉がある。それを語り手は知っているんじゃないかって。
M 「けど」対「どうも」ですよね。どれだけおびただしい「けど」がやってきても、理屈や論理や想像や願いや理念や仮想や並行世界がやってきたとしても、いまあなたにであうことの「どうも」にはかなわないかもしれない。
Y 語り手が暮らしているのは「どうも」の時間性かもしれないですよね。「どうも」と発話することはひとつの時間論になるのかもしれない。どうもって、目の前の相手といまここを共有しないと機能しない発話ですよね。もしかしたら、ニーチェもこれがいいたかったのかもしれない。「ああこれが人生なのか。ならば、〈どうも〉をもういちど!」って。
M じゃあ、〈どうも〉の時空を駆けめぐるニーチェの話が出たところで山中さんのこんな一首でおわりにしたいとおもいます。「なる」というやはり無限を胚胎したような動詞の時間の結語のなかで。
永劫回帰のなかで何度も死ぬ犬が何度もはちみつを好きになる 山中千瀬
【〈どうも〉の時間論】
M 山中さんの一首ですね。
Y ときどきもし山中さんと同じクラスなら五十音順の名前並びでは山中さんわたしやぎもとの後ろに来るはずなので、クラス替えの当初は同じ班になるんじゃないかとおもってるんですよね。や行とかわ行ばかりが集まった班として。注射のときもうしろにいるんじゃないかって。
M ええ、ええ、まあ、そうでしょうね。はい、はい。ところでこの一首はどうでしたか。
Y さいしょはじめて見たとき泣けたんですよね。なんだ、とおもって。なんだこの眼から出てくる液体は!? ってゴーリキーの小説の登場人物みたいにめちゃくちゃにこぶしでめがしらをこすっていたんですが、どうも、なみだ、というらしかった。
M ええ、ええ。まあ、そうでしょう。はい、はい。これ、構造としては、「けど1」→「けど2」→「どうも」ってなってるように思うんですよね。二回「けど」の連続した反転とエクスキューズがあって、最後にとつぜん挿入される「どうも」で、それらの「けど」が〈遭遇〉として解消される。
Y あ、そうか。いまMさんの話をきいてちょっと理解したんですけど、これって〈来世〉→〈現世〉→〈いま・ここ〉っていう時間軸がぎゅーっと絞られていく過程の醍醐味がありますよね。まず、来世の話をする。「生まれ変わったらあなたと暮らすけど」。それから、現世の話。「生まれ変わりはないけど」。そして、さいごにいま・ここの遭遇。「どうも」。このどうもの直前の「、(読点)」がタイムリープとして機能しているようにもおもうな。それまでの時間軸をふっとばすものとして。来世や現世について語りながらも、でもそれらをたえずくつがえし、ひっくりかえし、〈いま〉としか感じられないようなドットとしての〈どうも〉がある。それを語り手は知っているんじゃないかって。
M 「けど」対「どうも」ですよね。どれだけおびただしい「けど」がやってきても、理屈や論理や想像や願いや理念や仮想や並行世界がやってきたとしても、いまあなたにであうことの「どうも」にはかなわないかもしれない。
Y 語り手が暮らしているのは「どうも」の時間性かもしれないですよね。「どうも」と発話することはひとつの時間論になるのかもしれない。どうもって、目の前の相手といまここを共有しないと機能しない発話ですよね。もしかしたら、ニーチェもこれがいいたかったのかもしれない。「ああこれが人生なのか。ならば、〈どうも〉をもういちど!」って。
M じゃあ、〈どうも〉の時空を駆けめぐるニーチェの話が出たところで山中さんのこんな一首でおわりにしたいとおもいます。「なる」というやはり無限を胚胎したような動詞の時間の結語のなかで。
永劫回帰のなかで何度も死ぬ犬が何度もはちみつを好きになる 山中千瀬
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