【感想】騎乗位の妻が蚊を打つこだまかな 久真八志
- 2014/04/01
- 02:21
騎乗位の妻が蚊を打つこだまかな 久真八志
(かばん2014年3月号)
【久真八志さんの俳句の感想-知覚の眩暈-】
「かばんも五七五大賞 飯島章友選」で「秀一」だった久真八志さんの俳句。
飯島章友さんの寸評に「簡潔に言うと、『騎乗位』と『蚊を打つ』には生と死の関係性、そして夢中と散漫のトボけた関係性がある」とあるのだが、飯島さんのことばを敷衍するかたちでこの句の〈語り手〉に着目してみたい。なぜなら、わたしはこの句のおもしろさや凄さは、飯島さんがいうようにこの句のはらむ極点から極点に位相がうつりかわる〈ゆれ〉、語り手が語りつつもブレていくモーションにあるのではないかとおもうからだ。
飯島さんはよく短歌や川柳を鑑賞するときに、〈私小説〉的に読解するのではなく、歌や句の構造からとらえていくことを説かれていたが、わたしも句を句の背景にただひとえに還元するのではなく、句の構造をきちんと自分なりにみすえることが大事なのではないかとおもう。つまり、句単体として作中主体=語り手の位相からかんがえてみること(だから、このブログでわたしが書いているわたしの歌や句の〈自解〉もひとつの解釈にしかすぎず、すべて〈誤読〉かもしれないともおもっている)。
こんかいは、この句の構造をとらえるために、作中主体=語り手の視線の動きをみてみたい。
この句は「騎乗位」から入るため、語り手は下から「妻」をみあげている視座から入る。
ところが、中七(あいだの七音)に入っていくときに、〈視線〉は「妻」ではなく、「蚊」を中心とした「こだま」の響くような〈場所〉へと一転することになる。
つまり、かなり乱暴にいえば、わたしはこの句のおもしろさは、〈視線〉がジェットコースターのようにめまぐるしくゆらめいているところにあるのではないかとおもう。
なぜなら、「騎乗位」の渦中にある語り手の視線そのものが最初から「震動」というブレの渦中にあるだろうから。
「妻」から「蚊」へのぶれた視線のベクトルは、どうじに、語り手の意識のぶれもあらわしている。
すなわち、「妻」と「蚊」の位階をつくるような〈なにか〉が妻とつながりあいながらも語り手の意識におこっているのだ(つながりつつも・断絶すること)。
しかし下五(おわりの五音)においてさらにおどろくべきことが起こる。「こだま」という聴覚に特権的にうったえることばによって視覚は遮蔽され、聴覚という対象化しえない融合的な知覚によって「妻」と「蚊」が渾然一体となった境地に語り手はむかうのだ。
さいごにそのような知覚の大きなカタルシスがある点でもこの句はジェットコースターに似ているようにおもう(「騎乗位」からはじまる句なのだから始発は「触覚」である。「触覚」→「視覚」→「聴覚」という知覚のジェットコースター)。
短歌、俳句、川柳における語り手の視座/視覚/視線とはなにかということを実践的に(あたかも句自体が構造的に)かんがえている句であるようにおもう。
(かばん2014年3月号p27)
(かばん2014年3月号)
【久真八志さんの俳句の感想-知覚の眩暈-】
「かばんも五七五大賞 飯島章友選」で「秀一」だった久真八志さんの俳句。
飯島章友さんの寸評に「簡潔に言うと、『騎乗位』と『蚊を打つ』には生と死の関係性、そして夢中と散漫のトボけた関係性がある」とあるのだが、飯島さんのことばを敷衍するかたちでこの句の〈語り手〉に着目してみたい。なぜなら、わたしはこの句のおもしろさや凄さは、飯島さんがいうようにこの句のはらむ極点から極点に位相がうつりかわる〈ゆれ〉、語り手が語りつつもブレていくモーションにあるのではないかとおもうからだ。
飯島さんはよく短歌や川柳を鑑賞するときに、〈私小説〉的に読解するのではなく、歌や句の構造からとらえていくことを説かれていたが、わたしも句を句の背景にただひとえに還元するのではなく、句の構造をきちんと自分なりにみすえることが大事なのではないかとおもう。つまり、句単体として作中主体=語り手の位相からかんがえてみること(だから、このブログでわたしが書いているわたしの歌や句の〈自解〉もひとつの解釈にしかすぎず、すべて〈誤読〉かもしれないともおもっている)。
こんかいは、この句の構造をとらえるために、作中主体=語り手の視線の動きをみてみたい。
この句は「騎乗位」から入るため、語り手は下から「妻」をみあげている視座から入る。
ところが、中七(あいだの七音)に入っていくときに、〈視線〉は「妻」ではなく、「蚊」を中心とした「こだま」の響くような〈場所〉へと一転することになる。
つまり、かなり乱暴にいえば、わたしはこの句のおもしろさは、〈視線〉がジェットコースターのようにめまぐるしくゆらめいているところにあるのではないかとおもう。
なぜなら、「騎乗位」の渦中にある語り手の視線そのものが最初から「震動」というブレの渦中にあるだろうから。
「妻」から「蚊」へのぶれた視線のベクトルは、どうじに、語り手の意識のぶれもあらわしている。
すなわち、「妻」と「蚊」の位階をつくるような〈なにか〉が妻とつながりあいながらも語り手の意識におこっているのだ(つながりつつも・断絶すること)。
しかし下五(おわりの五音)においてさらにおどろくべきことが起こる。「こだま」という聴覚に特権的にうったえることばによって視覚は遮蔽され、聴覚という対象化しえない融合的な知覚によって「妻」と「蚊」が渾然一体となった境地に語り手はむかうのだ。
さいごにそのような知覚の大きなカタルシスがある点でもこの句はジェットコースターに似ているようにおもう(「騎乗位」からはじまる句なのだから始発は「触覚」である。「触覚」→「視覚」→「聴覚」という知覚のジェットコースター)。
短歌、俳句、川柳における語り手の視座/視覚/視線とはなにかということを実践的に(あたかも句自体が構造的に)かんがえている句であるようにおもう。
(かばん2014年3月号p27)
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