【感想】間違へてみどりに塗つたしまうまが夏のすべてを支配してゐる 荻原裕幸
- 2015/05/01
- 12:55
間違へてみどりに塗つたしまうまが夏のすべてを支配してゐる 荻原裕幸
*
M 『短歌研究』1992年8月号、荻原裕幸さんの連作「しまうま界」の一首です。今回かんがえてみたいのは短歌のなかで〈間違える〉ということです。定型や短詩のなかで〈間違える〉行為を遂行するってたぶんとても大事なことだとおもうんですよね。そもそも〈間違える〉って主体を分割するっていうか、殖やす行為ですよね。
Y あ、そうか。間違えるっていうことは、はじめはなにかをやろうとしていたんだけれど、でももうひとりのじぶんが無意識に間違えてしまってそっちをやってしまった。そういったダブルの行為を志向するダブル主体になってしまうんだ。
M だから間違えるっていうのは主体を二重化する行為ですよね。とくに短歌では、〈わたし〉という主体はたちあげた瞬間、31音をはしりぬけて、解体されてしまうから、その短さのなかでふたりも〈わたし〉がでてくるっていうのはわりあい大きなことではないかとおもうんです。だからこの歌ではみどりのしまうまが「夏のすべてを支配してゐる」んですが、実は「夏のすべて」を「支配してゐる」のは、「しまうま」なんかじゃなくて、「間違ったわたしの行為」が夏のすべてを支配しているんですよね。間違わなければ起こりえなかったことなんだから。
Y そういえば笹井さんに間違える歌がありましたよね。
この森で軍手を売って暮らしたい 間違えて図書館を建てたい 笹井宏之
この笹井さんの歌はまだ間違ってなくて、〈間違えたい〉歌なんですね。でも間違いって荻原さんの歌のように過失として行うものだから、笹井さんの歌はこんなふうに意識的に間違えることを言語化しちゃったから、もう間違えることはできないんだろうっていう悲しい予感もありますよね。
M そうなんですよ。荻原さんの歌が「すべて」という言葉にあらわれいたように〈無意識の全能感〉みたいなものがあったのにくらべて、笹井さんの歌では〈無意識への挫折〉があらわれているんじゃないかと思うんですよ。間違えることを間違えると言語化することは実は間違えられなくなってしまうことなんですよ。だから荻原さんの歌のように初句でとつぜん思いがけなく間違えるしか「しまうま界」に至る道はないんですよ。笹井さんの場合は「図書館を建てたい」んですよね。だからことば=理性を志向している。そのことば=理性によって無意識に間違えることが阻止されている、ことばがことばによって阻止されてしまっている歌なんじゃないかと思います。
Y そうかんがえると「軍手を売って暮らしたい」というのも言葉の圏域からなんとか脱出したい、でもじぶんはまだことばの圏域にいるんだという自覚のようにもおもえてきますね。
M ことばじゃなくて、色の、絵の世界なら、はみだせたかもしれない。荻原さんの連作「しまうま界」というのはそういう色やイメージによってことばの領域をはみだしていく世界でもあったのではないかとおもうんです。それはたとえば、
画用紙が足りなくなつてテーブルにはみだしてゐるきみと向日葵 荻原裕幸
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M 『短歌研究』1992年8月号、荻原裕幸さんの連作「しまうま界」の一首です。今回かんがえてみたいのは短歌のなかで〈間違える〉ということです。定型や短詩のなかで〈間違える〉行為を遂行するってたぶんとても大事なことだとおもうんですよね。そもそも〈間違える〉って主体を分割するっていうか、殖やす行為ですよね。
Y あ、そうか。間違えるっていうことは、はじめはなにかをやろうとしていたんだけれど、でももうひとりのじぶんが無意識に間違えてしまってそっちをやってしまった。そういったダブルの行為を志向するダブル主体になってしまうんだ。
M だから間違えるっていうのは主体を二重化する行為ですよね。とくに短歌では、〈わたし〉という主体はたちあげた瞬間、31音をはしりぬけて、解体されてしまうから、その短さのなかでふたりも〈わたし〉がでてくるっていうのはわりあい大きなことではないかとおもうんです。だからこの歌ではみどりのしまうまが「夏のすべてを支配してゐる」んですが、実は「夏のすべて」を「支配してゐる」のは、「しまうま」なんかじゃなくて、「間違ったわたしの行為」が夏のすべてを支配しているんですよね。間違わなければ起こりえなかったことなんだから。
Y そういえば笹井さんに間違える歌がありましたよね。
この森で軍手を売って暮らしたい 間違えて図書館を建てたい 笹井宏之
この笹井さんの歌はまだ間違ってなくて、〈間違えたい〉歌なんですね。でも間違いって荻原さんの歌のように過失として行うものだから、笹井さんの歌はこんなふうに意識的に間違えることを言語化しちゃったから、もう間違えることはできないんだろうっていう悲しい予感もありますよね。
M そうなんですよ。荻原さんの歌が「すべて」という言葉にあらわれいたように〈無意識の全能感〉みたいなものがあったのにくらべて、笹井さんの歌では〈無意識への挫折〉があらわれているんじゃないかと思うんですよ。間違えることを間違えると言語化することは実は間違えられなくなってしまうことなんですよ。だから荻原さんの歌のように初句でとつぜん思いがけなく間違えるしか「しまうま界」に至る道はないんですよ。笹井さんの場合は「図書館を建てたい」んですよね。だからことば=理性を志向している。そのことば=理性によって無意識に間違えることが阻止されている、ことばがことばによって阻止されてしまっている歌なんじゃないかと思います。
Y そうかんがえると「軍手を売って暮らしたい」というのも言葉の圏域からなんとか脱出したい、でもじぶんはまだことばの圏域にいるんだという自覚のようにもおもえてきますね。
M ことばじゃなくて、色の、絵の世界なら、はみだせたかもしれない。荻原さんの連作「しまうま界」というのはそういう色やイメージによってことばの領域をはみだしていく世界でもあったのではないかとおもうんです。それはたとえば、
画用紙が足りなくなつてテーブルにはみだしてゐるきみと向日葵 荻原裕幸
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