【感想】佐藤文香『句集 君に目があり見開かれ』を〈ひかり〉から読む-レンアイとヒカリ-
- 2015/05/01
- 13:00
蛍消えとなりの人とさはりあふ 佐藤文香
【君に目があり見開かれるなら】
佐藤文香さんの句集『君に目があり見開かれ』からの一句です。
このタイトルからもわかるようにこの句では〈目〉や〈見開かれる〉状態にあることが大事なようにおもうんです。
〈見る〉といえば、佐佐木幸綱さんが「眼を閉じる啄木」という論考を書かれていて、そのなかで啄木の歌には「見る」という動詞が多いことを指摘しています。で、この啄木の歌は「見る」ではなくて「思う」であるべき箇所なのだけれど、それを「見る」と置換することによって啄木の歌はリアリティが出ているんだとそういうことを指摘されている。「思う」だと抽象的だけれども、「見る」だと具体的ですよね。
この掲句では「蛍消え」なのでひかりが失われていくなかで〈見る〉や〈目〉や〈見開かれる〉が減衰していく状況に入っていきます。そのときに、逆に、身体的に「となりの人」とコンタクトをとりあうことができる。「さはりあふ」なので、〈つながる・結託〉するというよりも、さわりあっている状態、つながる一歩手前で、ぎりぎりに結ばれ・結ばれていない状態にはいっていく。
ある意味、〈見る〉ということは光の作用で生じているのですが、そうした光と恋愛=レンアイが相関関係にある。「となりの人」という言葉も、身体的な指示であって、視覚的なことばではないですよね。視覚的であったらそのひとを〈認識〉したことばで、名前で、あるいは眼からのベクトルでいうはずです。「となり」というのは〈身体のとなり〉ということだと思うのです。
セーターをたたんで頬をさはられて 佐藤文香
これもですね、闇からの身体的コンタクトの句です。セーターをたたむことにより闇を生成しています。そしてその闇の生成によって、「頬をさはられ」ることが発現する。光のない場所では身体的コンタクトが生じる。レンアイが、起こる。
ところが。これがで、光がはいると、遮断されてしまうんです。たとえば、
春の光ぼくは眠る君は起きてゐて 佐藤文香
「春の光」が入ってきたときに、「ぼくは眠る」と「君は起きて」の対立と分離が生じる。
〈光〉というものが境界線になっているんじゃないかとおもうんですよね。光は、邪魔なわけです。
遺影めく君の真顔や我を抱き 佐藤文香
ここでは写真が光になっています。もちろん、これは「我を抱き」だから、君からいま抱かれている状態でつながっているじゃないかと思われるかもしれないのですが、ただ写真の言い方に注意してみます。「遺影」になっています。抱かれながらも「遺影」として〈君が死んでいる〉ことによって、「我」とは〈分離〉された状態になっているのではないかと思うのです。ここでも光が語り手を分離させている。
月下汗だくずつとおほきく手を振り合ふ 佐藤文香
月下なので、月の光ががんがん降り注いでいます。ということは、ひかりが分断するので、「ずつとおほきく手を振り合ふ」ぐらいに大きなさようならをしなければならない。
光がなければ、「逢える」のです。「煙ごし」なら。ほとんどと。
煙ごしに祭のほとんどと逢へる 佐藤文香
そしてだからこそ、これは「恋愛句集」ではなく、「レンアイ句集」と銘打たれていたのではないか。つまり、「恋愛」と漢字として認識できるほどには光量がない。「レンアイ」としかおぼろげにしか知覚できないような光源のなかでの〈ふれあい〉。それがこの句集が実践している〈レンアイ〉なのではないか。
テレビ見て帰る何かの実よく降る 佐藤文香
テレビ=光によって世界と分断された語り手は、曖昧な「何かの実」の降る世界に《あえて》身を置きます。
たとえ「君に目があり見開かれ」ていたとしても、わたしは「見る」ことによって起動してしまう〈近代的=啄木リアリティ〉からは、〈光の風景〉からは距離をとりつづけるかのように。
星がある 見てきた景色とは別に 佐藤文香
【君に目があり見開かれるなら】
佐藤文香さんの句集『君に目があり見開かれ』からの一句です。
このタイトルからもわかるようにこの句では〈目〉や〈見開かれる〉状態にあることが大事なようにおもうんです。
〈見る〉といえば、佐佐木幸綱さんが「眼を閉じる啄木」という論考を書かれていて、そのなかで啄木の歌には「見る」という動詞が多いことを指摘しています。で、この啄木の歌は「見る」ではなくて「思う」であるべき箇所なのだけれど、それを「見る」と置換することによって啄木の歌はリアリティが出ているんだとそういうことを指摘されている。「思う」だと抽象的だけれども、「見る」だと具体的ですよね。
この掲句では「蛍消え」なのでひかりが失われていくなかで〈見る〉や〈目〉や〈見開かれる〉が減衰していく状況に入っていきます。そのときに、逆に、身体的に「となりの人」とコンタクトをとりあうことができる。「さはりあふ」なので、〈つながる・結託〉するというよりも、さわりあっている状態、つながる一歩手前で、ぎりぎりに結ばれ・結ばれていない状態にはいっていく。
ある意味、〈見る〉ということは光の作用で生じているのですが、そうした光と恋愛=レンアイが相関関係にある。「となりの人」という言葉も、身体的な指示であって、視覚的なことばではないですよね。視覚的であったらそのひとを〈認識〉したことばで、名前で、あるいは眼からのベクトルでいうはずです。「となり」というのは〈身体のとなり〉ということだと思うのです。
セーターをたたんで頬をさはられて 佐藤文香
これもですね、闇からの身体的コンタクトの句です。セーターをたたむことにより闇を生成しています。そしてその闇の生成によって、「頬をさはられ」ることが発現する。光のない場所では身体的コンタクトが生じる。レンアイが、起こる。
ところが。これがで、光がはいると、遮断されてしまうんです。たとえば、
春の光ぼくは眠る君は起きてゐて 佐藤文香
「春の光」が入ってきたときに、「ぼくは眠る」と「君は起きて」の対立と分離が生じる。
〈光〉というものが境界線になっているんじゃないかとおもうんですよね。光は、邪魔なわけです。
遺影めく君の真顔や我を抱き 佐藤文香
ここでは写真が光になっています。もちろん、これは「我を抱き」だから、君からいま抱かれている状態でつながっているじゃないかと思われるかもしれないのですが、ただ写真の言い方に注意してみます。「遺影」になっています。抱かれながらも「遺影」として〈君が死んでいる〉ことによって、「我」とは〈分離〉された状態になっているのではないかと思うのです。ここでも光が語り手を分離させている。
月下汗だくずつとおほきく手を振り合ふ 佐藤文香
月下なので、月の光ががんがん降り注いでいます。ということは、ひかりが分断するので、「ずつとおほきく手を振り合ふ」ぐらいに大きなさようならをしなければならない。
光がなければ、「逢える」のです。「煙ごし」なら。ほとんどと。
煙ごしに祭のほとんどと逢へる 佐藤文香
そしてだからこそ、これは「恋愛句集」ではなく、「レンアイ句集」と銘打たれていたのではないか。つまり、「恋愛」と漢字として認識できるほどには光量がない。「レンアイ」としかおぼろげにしか知覚できないような光源のなかでの〈ふれあい〉。それがこの句集が実践している〈レンアイ〉なのではないか。
テレビ見て帰る何かの実よく降る 佐藤文香
テレビ=光によって世界と分断された語り手は、曖昧な「何かの実」の降る世界に《あえて》身を置きます。
たとえ「君に目があり見開かれ」ていたとしても、わたしは「見る」ことによって起動してしまう〈近代的=啄木リアリティ〉からは、〈光の風景〉からは距離をとりつづけるかのように。
星がある 見てきた景色とは別に 佐藤文香
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