【感想】ながれるゾンビと(ゾンビにつかまって)ながれる宮沢賢治-宮沢賢治の短歌をゾンビから読む-
- 2015/05/07
- 13:06
そもこれはいづくの河のけしきぞや人と死びととむれながれたり
青じろきながれのなかにひとびとは青ながき腕をひたうごかせり
うしろなるひとは青うでさしのべて前行くもののあしをつかめり
あるときは青きうでもてむしりあふ流れのなかの青き死人ら
肩せなか喰みつくされてしにびとはよみがへりさめいかりなげきぬ
あたまのみわれをはなれてはぎしりの白きながれをよぎり行くなり
宮沢賢治「青びとのながれ」
【ながれる宮沢賢治とゾンビたち(クラムボンとかも)】
宮沢賢治は短歌もつくるひとだったんですが、大正七年の「青びとの流れ」という歌稿があるんです。
で、これはいまの視点からみると石原ユキオさんの『ハイクオブザデッド』をほうふつとさせる〈ゾンビ短歌〉になっているんです。
ゾンビから宮沢賢治を読めないか。
たとえば「むれ」や「ひとびと」という言葉に注目すればそれはゾンビの〈大衆性・集団性・脱個別性〉への指示子になるし、「ひたうごかせり」や「あしをつかめり」「うでもてむしりあふ」「喰みつくされて」「あたまのみわれをはなれてはぎしり」を読めば、それはゾンビの〈パーツ〉が主体化していくような身体性につながっていきます。
宮沢賢治の短歌が教えてくれるのは、ゾンビ表象というのはひとつは〈集団的表象〉であること(ゾンビはもともと資本家に従事する強制労働者の表象だったかもしれないこととも関連しています)、もうひとつは身体をトータルに把握するのではなく、むしろ部位として身体を〈フロー(流れ)〉として把持する〈フローの身体観〉。これは石原ユキオさんのゾンビ俳句にもつながっていく点です。
こうしたことをゾンビから宮沢賢治を読んでみるとみえてくるようにおもうんです。
そもそもこの宮沢賢治の連作はタイトルにもあるように〈ながれ〉というのがひとつの大事な基底音になっているんですが、そうしたフローというのがゾンビには大事なようにおもうんです。
たとえばゾンビ映画を観ていてわかるようにゾンビとショッピングモールは親和性が強いですが、ショッピングモールとは、買い物かごをのせたショッピングカートをフローさせながら買いたいものをフローの視線とフローの身体で〈ながれ〉としてみていく場所です。
そこではキャラクターやパーソナリティーなどのとどまる〈個性〉が大事なのではなく、いかにそこにある消費剤にフローしながら反応し順応していけるかということが問われている。消費自体が、消費=流れ=消尽=フローだからです。ティッシュや洗剤はなくなるので。
ゾンビもまた、このひとを愛したい、このひとと逢いたい、このひととおしゃべりしたいという目的で歩くわけではなく、〈だれでも〉いいから食べたいという無目的=フローで、フローする消費される身体を求めて、フロー=徘徊している。
たとえばちょっと思い返してみると、「クラムボン」や『銀河鉄道の夜』「注文の多い料理店」も、〈ながれ〉が主題化された〈フロー〉の物語だったのではないかとおもいます。そしてその〈フロー〉の果てにはいずれの物語にも〈死〉があった。
フローとは、なんなのか。
もっといえば、フローが特権化されたゾンビのむれの〈ながれ〉のなかで、にもかかわらず、フローをせきとめるような、つまずくゾンビがいたとしたら、それは〈どうゆうことなのか〉。ゾンビうっかりなのか、それとも、ゾンビ哲学なのか。
這ふ死体につまづいてゐる死体かな 石原ユキオ
青じろきながれのなかにひとびとは青ながき腕をひたうごかせり
うしろなるひとは青うでさしのべて前行くもののあしをつかめり
あるときは青きうでもてむしりあふ流れのなかの青き死人ら
肩せなか喰みつくされてしにびとはよみがへりさめいかりなげきぬ
あたまのみわれをはなれてはぎしりの白きながれをよぎり行くなり
宮沢賢治「青びとのながれ」
【ながれる宮沢賢治とゾンビたち(クラムボンとかも)】
宮沢賢治は短歌もつくるひとだったんですが、大正七年の「青びとの流れ」という歌稿があるんです。
で、これはいまの視点からみると石原ユキオさんの『ハイクオブザデッド』をほうふつとさせる〈ゾンビ短歌〉になっているんです。
ゾンビから宮沢賢治を読めないか。
たとえば「むれ」や「ひとびと」という言葉に注目すればそれはゾンビの〈大衆性・集団性・脱個別性〉への指示子になるし、「ひたうごかせり」や「あしをつかめり」「うでもてむしりあふ」「喰みつくされて」「あたまのみわれをはなれてはぎしり」を読めば、それはゾンビの〈パーツ〉が主体化していくような身体性につながっていきます。
宮沢賢治の短歌が教えてくれるのは、ゾンビ表象というのはひとつは〈集団的表象〉であること(ゾンビはもともと資本家に従事する強制労働者の表象だったかもしれないこととも関連しています)、もうひとつは身体をトータルに把握するのではなく、むしろ部位として身体を〈フロー(流れ)〉として把持する〈フローの身体観〉。これは石原ユキオさんのゾンビ俳句にもつながっていく点です。
こうしたことをゾンビから宮沢賢治を読んでみるとみえてくるようにおもうんです。
そもそもこの宮沢賢治の連作はタイトルにもあるように〈ながれ〉というのがひとつの大事な基底音になっているんですが、そうしたフローというのがゾンビには大事なようにおもうんです。
たとえばゾンビ映画を観ていてわかるようにゾンビとショッピングモールは親和性が強いですが、ショッピングモールとは、買い物かごをのせたショッピングカートをフローさせながら買いたいものをフローの視線とフローの身体で〈ながれ〉としてみていく場所です。
そこではキャラクターやパーソナリティーなどのとどまる〈個性〉が大事なのではなく、いかにそこにある消費剤にフローしながら反応し順応していけるかということが問われている。消費自体が、消費=流れ=消尽=フローだからです。ティッシュや洗剤はなくなるので。
ゾンビもまた、このひとを愛したい、このひとと逢いたい、このひととおしゃべりしたいという目的で歩くわけではなく、〈だれでも〉いいから食べたいという無目的=フローで、フローする消費される身体を求めて、フロー=徘徊している。
たとえばちょっと思い返してみると、「クラムボン」や『銀河鉄道の夜』「注文の多い料理店」も、〈ながれ〉が主題化された〈フロー〉の物語だったのではないかとおもいます。そしてその〈フロー〉の果てにはいずれの物語にも〈死〉があった。
フローとは、なんなのか。
もっといえば、フローが特権化されたゾンビのむれの〈ながれ〉のなかで、にもかかわらず、フローをせきとめるような、つまずくゾンビがいたとしたら、それは〈どうゆうことなのか〉。ゾンビうっかりなのか、それとも、ゾンビ哲学なのか。
這ふ死体につまづいてゐる死体かな 石原ユキオ
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