【感想】片蔭のこれはマヨネーズの蓋か 荻原裕幸
- 2014/05/26
- 15:09
片蔭のこれはマヨネーズの蓋か 荻原裕幸
『週刊俳句 Haiku Weekly: 10句作品 世ハ事モ無シ』
【俳句からマヨネーズへ/マヨネーズから俳句へ】
以前から表現におけるマヨネーズに興味があるんですが、邪道かもしれないとはおもいながらも、マヨネーズから俳句を読んでみるとどのように読めるのかという試みとして荻原さんの俳句をマヨネーズから読んでみたいとおもいます。
この句を定型に沿って区分けしてみると、「片蔭の/これはマヨネー/ズの蓋か」というようにマヨネーズが定型上、ふたつに裂かれている、というよりも中七から下五にまたがっている、間延びしているのをみることができます。
この句の季語は「片蔭」という夏の季語で、塀や家などによってできる「物陰」のことです。語り手がこの「片蔭」をとおして「マヨネーズの蓋」を認識しているのがひとつのポイントだとおもっているんですが、結語の疑問や驚きをあらわす終助詞「か」にみられるように、語り手は、物陰において「マヨネーズの蓋」を即座には視認できなかったはずです。だから視認することの〈ためらい〉が定型上の〈またがり〉としてあらわれているのではないかとおもうんですね。つまり、中七から下五へのマヨネーズの句またがりに、語り手のマヨネーズの蓋に対する決断の先送りがあらわれているのではないか、と。
俳句という五七五の定型において、語り手は定型的にためらいをみせたのだと、おもうんですね。しかし、このマヨネーズにおける句またがり的ためらいは、マヨネーズそのものの性質とも関係しているんじゃないかという気がするんです。
ここでマヨネーズについてかんがえてみるならば、マヨネーズとは、マヨネーズのボトルを使う主体が、じぶんの意志で、量を加減できる、分節できるのが、マヨネーズです。もちろん、意志に反して足りないこともあるし、出過ぎてしまうこともある。しかし、マヨネーズとは、そもそもがそうした〈どれくらい・どんなふうに・どこに〉かけるかという主体のコントロールとのかかわり合いにおいて発現される食べ物であり、しかしそのコントロールの誤差がどうしてもでてしまうような〈余剰〉をふくんでいる食べ物でもあります。
そして、そうしたマヨネーズとの誤差を含んだ主体的関わりを完封するのが、「マヨネーズの蓋」です。
だからこの句の力学として、「片蔭」「マヨネーズ」といった語り手のコントロールがなかなか効かない場所や物が「蓋」というポイントによって封じられつつも、最終的に「か」と結語することによってふたたび曖昧な非決定領域におかれるという、これはそうしたマヨネーズ的主体と関係がふかい句なのではないかとおもうんです。
マヨネーズ的主体とは、コントロールしつつも・コントロールの効かない余剰をかかえる「なにか」です。定型のなかでも句またがりしてしまうことによって定型内で定型をさまよう主体のことです。
「片蔭」や「マヨネーズ」という余剰をかかえざるをえないようなブラックボックスの領域において「蓋」をしきれなかった点に、この句の俳句マヨネーズ的余情があるのではないかとおもいました。
迎春や何でも撮つてから食べる 荻原裕幸
『週刊俳句 Haiku Weekly: 10句作品 世ハ事モ無シ』
【俳句からマヨネーズへ/マヨネーズから俳句へ】
以前から表現におけるマヨネーズに興味があるんですが、邪道かもしれないとはおもいながらも、マヨネーズから俳句を読んでみるとどのように読めるのかという試みとして荻原さんの俳句をマヨネーズから読んでみたいとおもいます。
この句を定型に沿って区分けしてみると、「片蔭の/これはマヨネー/ズの蓋か」というようにマヨネーズが定型上、ふたつに裂かれている、というよりも中七から下五にまたがっている、間延びしているのをみることができます。
この句の季語は「片蔭」という夏の季語で、塀や家などによってできる「物陰」のことです。語り手がこの「片蔭」をとおして「マヨネーズの蓋」を認識しているのがひとつのポイントだとおもっているんですが、結語の疑問や驚きをあらわす終助詞「か」にみられるように、語り手は、物陰において「マヨネーズの蓋」を即座には視認できなかったはずです。だから視認することの〈ためらい〉が定型上の〈またがり〉としてあらわれているのではないかとおもうんですね。つまり、中七から下五へのマヨネーズの句またがりに、語り手のマヨネーズの蓋に対する決断の先送りがあらわれているのではないか、と。
俳句という五七五の定型において、語り手は定型的にためらいをみせたのだと、おもうんですね。しかし、このマヨネーズにおける句またがり的ためらいは、マヨネーズそのものの性質とも関係しているんじゃないかという気がするんです。
ここでマヨネーズについてかんがえてみるならば、マヨネーズとは、マヨネーズのボトルを使う主体が、じぶんの意志で、量を加減できる、分節できるのが、マヨネーズです。もちろん、意志に反して足りないこともあるし、出過ぎてしまうこともある。しかし、マヨネーズとは、そもそもがそうした〈どれくらい・どんなふうに・どこに〉かけるかという主体のコントロールとのかかわり合いにおいて発現される食べ物であり、しかしそのコントロールの誤差がどうしてもでてしまうような〈余剰〉をふくんでいる食べ物でもあります。
そして、そうしたマヨネーズとの誤差を含んだ主体的関わりを完封するのが、「マヨネーズの蓋」です。
だからこの句の力学として、「片蔭」「マヨネーズ」といった語り手のコントロールがなかなか効かない場所や物が「蓋」というポイントによって封じられつつも、最終的に「か」と結語することによってふたたび曖昧な非決定領域におかれるという、これはそうしたマヨネーズ的主体と関係がふかい句なのではないかとおもうんです。
マヨネーズ的主体とは、コントロールしつつも・コントロールの効かない余剰をかかえる「なにか」です。定型のなかでも句またがりしてしまうことによって定型内で定型をさまよう主体のことです。
「片蔭」や「マヨネーズ」という余剰をかかえざるをえないようなブラックボックスの領域において「蓋」をしきれなかった点に、この句の俳句マヨネーズ的余情があるのではないかとおもいました。
迎春や何でも撮つてから食べる 荻原裕幸
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