【感想】7は今ひらくか波の糸つらなる 鴇田智哉
- 2015/05/09
- 13:16
7は今ひらくか波の糸つらなる 鴇田智哉
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M 鴇田智哉さんの『凧と円柱』からの一句です。
Y これはまた俳句ですよね。でも、7ってなんだろう。
M たしかですね、去年の秋に新宿紀ノ国屋のSSTのイヴェントに出ていたときに、関悦史さんが鴇田さんの句集のなかのプラトン的な《抽象化からの具体的手続き》について話されていたんですが、7っていうのは抽象的ななにかとしてとらえることもできそうですよね。西原天気さんもこの7の抽象性をたしか指摘されていました。
Y そういえば、下北沢のイヴェントに出たときにこの7の句についてセブンイレブンの句なんだってたしか話されていたんですよね。で、これはたしか小津夜景さんが文字の観点、エクリチュール(書記行為)の観点からも論じられていましたよね。わたしは、この「波の糸つらなる」の水の記号性に、ウルトラセブンのエレキングやキングジョーの回を思い浮かべていて、いつかウルトラセブンからこの句に取り組めたらいいなと思っているんですが。
M とりあえず鴇田さんの句集の通底する〈気分〉に、〈ぼんやり〉というものがあるようにおもうんですよね。なにか具体性がつかめない、でも具体はある。具体はあるんだけれども、でもそれがなにかっていわれると急にぼんやりしてしまう。まさにプラトンの洞窟のなかで影絵をみているにすぎないことに気がついてしまっている語り手がそれを知っていて積極的にぼんやりしているというか。
それでですね、とつぜんなんだけれどもこの〈ぼんやり〉感っていうのは、80年代半ばにライトヴァースとして出てきた俵万智さんには無かったものだよねってさいきん『サラダ記念日』をずっと読み返していて思ったんです。鴇田智哉さんと俵万智さんを併読してみて。
焼肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き 俵万智
すごく名詞が充足しているというか、幸福な一致のありようをみせていると思うんです。「好き」っていえるのって名詞の完全な記号的充足ができてるからこそ、「好き」と対象化していえるのではないかとおもうんです。リアル充足=リア充とはそうした記号充足のありかたを指すのではないかともおもうくらいです。この歌では「焼肉」も「グラタン」も「少女」も「お父さん」も記号的に完全であり、だからこそ、多大なる好きをほとばしらせることができる。「寒いね」と「寒いね」
の記号一致もそうです。
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 俵万智
これは記号充足のあたたかさですよね。「好き」といえばたぶん「好き」といってくれる充足感。でも鴇田さんの句集ではこの「好き」が発話できないんじゃないかとおもうんです。〈ぼんやり〉の〈気分〉のなかでは「好き」という対象化作業ができないから。
で、この〈ぼんやり〉ではないんですが、90年代はじめのニューウェーブにおいても、やっぱり記号充足ができなかったんじゃないかとおもうんです。
戦争が(どの戦争が?)終つたら紫陽花を見にゆくつもりです 荻原裕幸
この荻原さんの短歌をさっきの俵万智さんの「寒いね」と比較してみるとわかるんですが、さっきの俵万智さんの短歌では「寒いね」といえば「寒いね」と記号表現に対して記号内容が充足していくので会話として〈終わり〉を迎えることができる。ところが荻原さんの短歌では「戦争が」と発話したその直後に「(どの戦争が?)」と、「戦争」という記号をずらす発話が別の位相からなされる。語り手は「終つたら紫陽花を見にゆくつもりです」と語ってはいるんだけれども、「戦争」という意味が確定しないからこの語り手はもう永久に紫陽花を見にゆくことはできないんじゃないかとおもうんです。記号の充足ができないから。戦争が終わることができない。誰もどの戦争かがわからないから。鴇田さんの7のように浮遊しつづけるだけだから。ニューウェーブはそうした記号充足に対する記号の渇きのようなものがあったのではないかとおもうんです。鴇田さんの7も数字だけれども、ニューウェーブも抽象化された文字記号を使うことが多かった。
Y そうかんがえると、「波の糸つらなる」っていうのはそうした記号が〈ぼんやり〉した状態、意味化も、形式化もできず、とろとろと糸をひきつづけるような、納豆的記号の様態を示しているのかもしれないですよね。それはウルトラセブンが「湖のひみつ」の回でエレキングとたたかっていたときに無駄に濡れてエロティックなおしりをみせていたときの記号の浮遊加減とどことなく似ているような気もする。
M じゃあちょっとだけその回のシーンを観て今回は終わりにしましょう。
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