【感想】宮崎駿『風立ちぬ』と俵万智、永井祐-接続と/切断、或いはたぶん、たぶん-
- 2015/05/15
- 01:34
さいきん『風立ちぬ』を観直していて思ったんですが、あのアニメはひとつの観方として、たとえどんなことをしても、どんな失敗をしても、〈待っててくれるひとがいる物語〉だということができるとおもうんですね。
たとえじぶんの行為がどのような方向性をもっていたとしてもそれを〈肯定〉し〈生きて〉と唱えてくれるひとがいる。
だからこのアニメの物語は菜穂子が死んでもまだ二郎のことを待っていてくれるのかどうかでかなり物語の全体の基調が変わっていくはずです。
二郎がつくったゼロ戦に乗ったひとはみんな死んでいった。でも二郎は生き残っている。
そこには戦争で死んだひとと、戦争を経てそれでも生きていくことになったひとの〈切断〉がある。
その〈切断〉を即座に埋めてしまうのが、菜穂子の〈生きて〉です。そして二郎は即答します。「うん、うん」と。
でも、ほんとうは、そこに〈うん、うん〉では容易に埋められない〈切断〉があるのかもしれないともおもうんです。率直にいうと、二郎のようになにをやっても待っててくれるひとがほんとうに誰にでもいるのか、それはあるいは一部の〈ヒーロー〉だけで〈わたし・たち〉にはいないんじゃないかという〈一抹の不安〉です(ちなみにハイデガーの述べていた〈不安〉とは境界づけられず限定づけることもできない主体のことのようです。だから、ある意味で〈菜穂子がいない主体〉=〈生きて、といってくれるひとがいない主体〉ということもできるかもしれません。
ここでちょっと唐突だけれども俵万智さんの短歌を思いだしてみたいとおもうのです。
「また電話しろよ」「待ってろ」いつもいつも命令形で愛を言う君 俵万智
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 〃
最後に〈夢の王国=地獄の草原〉で出会ったカプローニが「君を待ってるひとがいる」といって現れたのが菜穂子ですが、これは裏返せば、菜穂子はずっと「待ってろ」と言われていたのだということもできます。仕事が終わる(戦争が終わって決着がつく)までとりあえず待ってろよ、と。
そして「生きて」といってくれて「うん」といえるあたたかさが、ある。
もちろん菜穂子は〈死者〉なのだけれども、〈死者〉とコミュニケーションできるということが大切です。本来的には死者の言説は抑圧されるはずです。たとえば漱石『こゝろ』の先生は死んじゃうので、手紙=遺書の意味づけができずに〈こころ〉として曖昧に終わってしまいます。死ぬ、ということは、ディスコミュニケーションの状態で、生者と死者がことばのうえでは階層化されてしまうことです。生者と死者が非対称的な関係にならざるを得ないのが生きてる者と死んだ者のコミュニケーション的落差です。死者を語る/騙るのはつねに生きている者なのです。
でも二郎はコミュニケーションがとれてしまったわけです。
ここでまたある短歌を思い出してみたいとおもいます。
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね 永井祐
この〈二郎〉は菜穂子から「いいよね」といわれても「じゃあまたね」としかいえません。発話は明らかにずれ、ここには〈断絶〉があります。二字あきも相当な〈切断〉です。ここではたぶん〈いい風〉は吹きません。でも、この歌自体はディスコミュニケーションを正面から引き受けようとしているのかもしれません。すこし、そんな気もするのです。〈わたしたち〉や〈われわれ〉と容易にいえないような〈切断〉のありかたをさぐろうとしている歌なのかもしれない、と。
〈いい〉ということに〈うん〉とうなずけず、〈待ってる〉こともできず、〈じゃあまたね〉というしかないズレ。
いざ生きめやも、の直訳は、よし生きよう! 生きねば! ではなく、文法的には〈生きられるだろうか、いや生きられないだろう〉になります。なぜ、堀辰雄がそんな〈誤訳〉をしたのかは、わかりません。
でも堀辰雄のなかにも、もしかしたら〈ズレ〉があったのかもしれません。
〈戦後七十年〉ということで、〈戦後〉の言説がふきあれているけれど、そのときどう接続するかではなく、どう〈切断〉を生きる/生きないかたちをみつけるかも、すこし大事なのかなともおもうのです。物語は圧倒的な接続手段です。なにかを物語るということは、理屈を捨てて、接続させていくことです。でももしかしらそこには〈ズレ〉があるかもしれない。物語はたぶん〈切断〉を隠し、抑圧するためにも必要とされるときがあるのだろうから。
永井祐さんの歌で、月と月の同一性に対してぼくが「こっち」とズラしたように、二郎の〈こっち〉とはいったい〈どこ〉だったのかをかんがえてみるということ。二郎の「うん、うん」の対極にある、デリダの「たぶん、たぶん」の場所を。
敗者たちは、幾重にも表象の切断と転位を遂行する。そして、シベルブシュによれば、こうした切断と転位を合理化し・根拠づけていく際に、それぞれの歴史的・社会的・文化的コンテクストに即した神話=物語が要請される。 五味渕典嗣『大妻国文41』
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