【短歌】毎日新聞・毎日歌壇 加藤治郎 選・2015年5月18日、或いはそっと抱き上げて呉れよ、君。
- 2015/05/18
- 06:21
病室の満杯となりし夜のしじま問いの寝言に答える寝言 門倉まさる
きょうの加藤治郎さんの毎日歌壇の特選歌です。
この歌をみるとわかるんですが、きょうの毎日歌壇のテーマは、ことばとことばの共鳴、ことばからことばへ、あることばがほかのことばへとすこしズレをもちながらも反復していくことがテーマになっていたんじゃないかとおもうんですね。
たとえばこの門倉さんの歌なら、「寝言に答える寝言」です。そもそも「寝言」は意味形成の意志というよりは純粋な〈声〉そのものに近いことばだとおもうので、意味の応酬は行いえないはずなんですが、ところがそういう無意識の発話が語り手が短歌として介入していことによってあたかも寝言の対話になっている。
起こりえない対話を、語り手が短歌をとおして〈発見〉している。
そういうことばとことばの応酬を発見するのも短歌なのではないかとおもうのです。
たとえば今日の毎日歌壇にはこんな無意識の場のなかにおける応酬も。
高齢者の集うスナックカラオケの横に酸素の吸入器あり 北村行生
たぶんこの歌では、何が応酬=対話になっているかとううと「カラオケ」という歌の発声と、「酸素の吸入器」という吸うことの、息を〈出す〉ことと〈吸う〉ことの息の対話になっている。
それからこんな血の応酬(リフレイン)も。
A型であるゆえわざとA型に見えないように振る舞うA型 伊藤昌之
「A型」がリフレインされながらも反復されるたびに意味がずらされていく。おなじことばでも対話しあうということがわかります。
じつは食べ物なんかも応酬=対話しあうことがわかります。
朝食は食べないひとと知っていてそれでも君のためのトースト 東こころ
食べることがなされえない「朝食」と、しかしそのなされえないことがわかっているなかで焼き上げられる朝の「トースト」。そういう潜勢態のトーストと、可能態のトーストが対話しあっています。そのトーストの香ばしい対話はやはり語り手が「それでも君のため」になにかしたいという短歌的介入によって起こっています。
加藤治郎さんの毎日歌壇というのはじぶんなりにテーマがさがせるようになっているとおもうんですが、考えてみると、これもテーマとテーマの共鳴、ずれながらのテーマの反復じゃないかとおもうんですね。
それは、その〈きょう〉という朝にめいめいの朝のポジションから、トーストを焼き上げるようにさがしてみること、ふっとつながってしまったことが、じぶんのテーマに芳(かんば)しくつながってゆくんじゃないかとおもうのです。
そういえば、〈翻訳〉という行為も、ひとつのことばとことばの対話=応酬なのではないかとおもうのです。だから、それは〈にゃあ〉をめぐる翻訳なのですが、しかし、にゃあだって対話にはなりうるのだから、
にゃにゃあにゃあにゃあにゃあにゃにゃあ【訳:君は私をそっと抱き上げるべき】 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇 加藤治郎 選・2015年5月18日)
きょうの加藤治郎さんの毎日歌壇の特選歌です。
この歌をみるとわかるんですが、きょうの毎日歌壇のテーマは、ことばとことばの共鳴、ことばからことばへ、あることばがほかのことばへとすこしズレをもちながらも反復していくことがテーマになっていたんじゃないかとおもうんですね。
たとえばこの門倉さんの歌なら、「寝言に答える寝言」です。そもそも「寝言」は意味形成の意志というよりは純粋な〈声〉そのものに近いことばだとおもうので、意味の応酬は行いえないはずなんですが、ところがそういう無意識の発話が語り手が短歌として介入していことによってあたかも寝言の対話になっている。
起こりえない対話を、語り手が短歌をとおして〈発見〉している。
そういうことばとことばの応酬を発見するのも短歌なのではないかとおもうのです。
たとえば今日の毎日歌壇にはこんな無意識の場のなかにおける応酬も。
高齢者の集うスナックカラオケの横に酸素の吸入器あり 北村行生
たぶんこの歌では、何が応酬=対話になっているかとううと「カラオケ」という歌の発声と、「酸素の吸入器」という吸うことの、息を〈出す〉ことと〈吸う〉ことの息の対話になっている。
それからこんな血の応酬(リフレイン)も。
A型であるゆえわざとA型に見えないように振る舞うA型 伊藤昌之
「A型」がリフレインされながらも反復されるたびに意味がずらされていく。おなじことばでも対話しあうということがわかります。
じつは食べ物なんかも応酬=対話しあうことがわかります。
朝食は食べないひとと知っていてそれでも君のためのトースト 東こころ
食べることがなされえない「朝食」と、しかしそのなされえないことがわかっているなかで焼き上げられる朝の「トースト」。そういう潜勢態のトーストと、可能態のトーストが対話しあっています。そのトーストの香ばしい対話はやはり語り手が「それでも君のため」になにかしたいという短歌的介入によって起こっています。
加藤治郎さんの毎日歌壇というのはじぶんなりにテーマがさがせるようになっているとおもうんですが、考えてみると、これもテーマとテーマの共鳴、ずれながらのテーマの反復じゃないかとおもうんですね。
それは、その〈きょう〉という朝にめいめいの朝のポジションから、トーストを焼き上げるようにさがしてみること、ふっとつながってしまったことが、じぶんのテーマに芳(かんば)しくつながってゆくんじゃないかとおもうのです。
そういえば、〈翻訳〉という行為も、ひとつのことばとことばの対話=応酬なのではないかとおもうのです。だから、それは〈にゃあ〉をめぐる翻訳なのですが、しかし、にゃあだって対話にはなりうるのだから、
にゃにゃあにゃあにゃあにゃあにゃにゃあ【訳:君は私をそっと抱き上げるべき】 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇 加藤治郎 選・2015年5月18日)
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