【感想】シャイとかは問題ではない一晩中死なないマリオの前進を見た 柳谷あゆみ
- 2014/05/26
- 22:38
シャイとかは問題ではない一晩中死なないマリオの前進を見た 柳谷あゆみ
【マリオ・ゾンビ・メディア】
ゲーム言説におけるゲーム的リアリズム主体が、表現としての文学言説にどんなふうにかかわっていくのかということをかんがえていることがあります。
ゲーム的リアリズム主体っていうのは、いろんなふうにかんがえることができるとおもうんですが、ひとまずゲーム的リアリズムとしての「マリオ的主体」というものをかんがえた際に、うえの柳谷さんの短歌に的確にその主体のポイントがまとめられているようにおもうんです。
ひとつは、「シャイとかは問題ではない」と書いてあるように、マリオ的主体は、〈内面〉が問題にされない主体です。
マリオ的主体におけるなんらかの行為は、形式・身体・アクションをめぐるものであり、どれだけ「前進」したとしても、たとえばマリオならそれはピーチ姫への熱意や愛情といった内面によって構成される「前進」ではなくて、「前進」のための「前進」という象徴化されないぶきみな「前進」があるようにおもうんです。
マリオ的主体のふたつ目の特徴は、「死なない」ということです。もちろん、落ちたり、敵にあたれば、死ぬんですが、ただそれは、命のカウントが減るということであり、マリオにおいて死ぬということは、やり直すことでしかありません。死が繰り返されることを前提にされている点において、マリオとは「死」が剥奪された存在です。
以上、〈内面〉によって構成されない〈死〉が剥奪されたゲーム的主体としての「マリオ」を語り手が「見た」と結語することによって、語り手とゲーム的主体の関わりによってなんらかのドラマが起きたというのがこの短歌なのではないかとおもうんです。
ここで特徴をまとめてみてきづくのが、あれ、このマリオってゾンビの特徴とかぶってないかな、ということです。
藤田直哉さんが『ポストヒューマニティーズ』において、ゾンビを次のように規定しています。
「ゾンビ」とは現代においては身も蓋もなく脳科学的にコントロールされる文化産業に毒された我々の生でありさらには計算機やメディアの中に存在するメディア内存在である。それらの違いがどんどんわからなくなっていくのは、情報環境と文化産業の構造、そして我々の自己理解の仕方に由来する。
マリオやゾンビがその諸特性から(われわれをも含む)「メディア内存在」であると考えられるなら、柳谷さんのこのマリオ短歌は、じつはメディアによって枝分かれするわれわれの〈死生観〉、もしくは語り手がマリオを目撃したことによってあたらしい〈死生観〉の領域に踏み込んでしまった短歌としてみることもできるのでしょうか。
たとえば、東浩紀さんが『ゲーム的リアリズムの誕生』において、
ゲーム的リアリズムの表現は、まんが・アニメ的リアリズムの構成要素が生みだすものでありながら、物語を複数化しキャラクターの生を複数化し死をリセット可能なものにしてしまうため、まんが・アニメ的リアリズムの中心的な課題、すなわち「キャラクターに血を流させることの意味」を解体する。
と述べているように、実はゲーム的主体とは、なによりもまず〈死生観〉の問題であったはずです。
たとえば、工藤吉生さんが「冒険が短歌でよみがえる!? 工藤吉生による“ドラゴンクエスト3短歌”まとめ【五七五七七】」においてドラゴンクエスト短歌の連作をつくっていますが、そこでもたびたび〈死〉がモチーフとしてうたわれているのをみることができます。
棺桶に仲間を入れる埋葬をするつもりなぞいささかもなく
教会で死んだ仲間が目を覚ましひとつ大きな伸びを見せたり
ニフラムにかかるスライム光へと包まれながら目を閉じてゆく
えにくすが きよめのいずみに たちいらば ち にそまる あやめたるいのちの。
墓石を持ち上げる力足りぬままもう一度死ぬくさったしたい
ゲーム言説をいかに短歌のなかにひきこみ、そこからわれわれの主体をもういちどとらえなおしてみること。
柳谷さんのこの短歌はそういったゲーム言説にまつわる死生観とわたしたちの死生観が邂逅するまさにその瞬間を〈見〉ている短歌のようにもおもうのです。
終わらないクソゲーみたいな平坦な地平を小またで駆けて駆けて駆け 柳谷あゆみ
【マリオ・ゾンビ・メディア】
ゲーム言説におけるゲーム的リアリズム主体が、表現としての文学言説にどんなふうにかかわっていくのかということをかんがえていることがあります。
ゲーム的リアリズム主体っていうのは、いろんなふうにかんがえることができるとおもうんですが、ひとまずゲーム的リアリズムとしての「マリオ的主体」というものをかんがえた際に、うえの柳谷さんの短歌に的確にその主体のポイントがまとめられているようにおもうんです。
ひとつは、「シャイとかは問題ではない」と書いてあるように、マリオ的主体は、〈内面〉が問題にされない主体です。
マリオ的主体におけるなんらかの行為は、形式・身体・アクションをめぐるものであり、どれだけ「前進」したとしても、たとえばマリオならそれはピーチ姫への熱意や愛情といった内面によって構成される「前進」ではなくて、「前進」のための「前進」という象徴化されないぶきみな「前進」があるようにおもうんです。
マリオ的主体のふたつ目の特徴は、「死なない」ということです。もちろん、落ちたり、敵にあたれば、死ぬんですが、ただそれは、命のカウントが減るということであり、マリオにおいて死ぬということは、やり直すことでしかありません。死が繰り返されることを前提にされている点において、マリオとは「死」が剥奪された存在です。
以上、〈内面〉によって構成されない〈死〉が剥奪されたゲーム的主体としての「マリオ」を語り手が「見た」と結語することによって、語り手とゲーム的主体の関わりによってなんらかのドラマが起きたというのがこの短歌なのではないかとおもうんです。
ここで特徴をまとめてみてきづくのが、あれ、このマリオってゾンビの特徴とかぶってないかな、ということです。
藤田直哉さんが『ポストヒューマニティーズ』において、ゾンビを次のように規定しています。
「ゾンビ」とは現代においては身も蓋もなく脳科学的にコントロールされる文化産業に毒された我々の生でありさらには計算機やメディアの中に存在するメディア内存在である。それらの違いがどんどんわからなくなっていくのは、情報環境と文化産業の構造、そして我々の自己理解の仕方に由来する。
マリオやゾンビがその諸特性から(われわれをも含む)「メディア内存在」であると考えられるなら、柳谷さんのこのマリオ短歌は、じつはメディアによって枝分かれするわれわれの〈死生観〉、もしくは語り手がマリオを目撃したことによってあたらしい〈死生観〉の領域に踏み込んでしまった短歌としてみることもできるのでしょうか。
たとえば、東浩紀さんが『ゲーム的リアリズムの誕生』において、
ゲーム的リアリズムの表現は、まんが・アニメ的リアリズムの構成要素が生みだすものでありながら、物語を複数化しキャラクターの生を複数化し死をリセット可能なものにしてしまうため、まんが・アニメ的リアリズムの中心的な課題、すなわち「キャラクターに血を流させることの意味」を解体する。
と述べているように、実はゲーム的主体とは、なによりもまず〈死生観〉の問題であったはずです。
たとえば、工藤吉生さんが「冒険が短歌でよみがえる!? 工藤吉生による“ドラゴンクエスト3短歌”まとめ【五七五七七】」においてドラゴンクエスト短歌の連作をつくっていますが、そこでもたびたび〈死〉がモチーフとしてうたわれているのをみることができます。
棺桶に仲間を入れる埋葬をするつもりなぞいささかもなく
教会で死んだ仲間が目を覚ましひとつ大きな伸びを見せたり
ニフラムにかかるスライム光へと包まれながら目を閉じてゆく
えにくすが きよめのいずみに たちいらば ち にそまる あやめたるいのちの。
墓石を持ち上げる力足りぬままもう一度死ぬくさったしたい
ゲーム言説をいかに短歌のなかにひきこみ、そこからわれわれの主体をもういちどとらえなおしてみること。
柳谷さんのこの短歌はそういったゲーム言説にまつわる死生観とわたしたちの死生観が邂逅するまさにその瞬間を〈見〉ている短歌のようにもおもうのです。
終わらないクソゲーみたいな平坦な地平を小またで駆けて駆けて駆け 柳谷あゆみ
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