【感想】何見てる何にもと言う春の午後 嶋澤喜八郎
- 2015/05/21
- 18:20
もうわたしはなくなるだろう、彼はもうわたしとはいうまい、彼はもうなにもいうまい、彼はだれにも語るまい、だれも彼には語るまい、彼は自分にも語るまい、彼はもう考えまい、彼は進んでいく、わたしはなかにいる、彼はあるところにきて落ちる、
彼は落ちて眠り、起きて進み、わたしのせいでもう進めなくなる。
彼の頭にはなにも残らない、それがいるものはみんなわたしが食べさせる。
ベケット『下痢・不発』
何見てる何にもと言う春の午後 嶋澤喜八郎
【なにもない空間を囲むなにもある定型】
さいきんちょっと思ったのは、川柳っていうのは実はベケット的なものが多いんじゃないかなということです。
ベケットはともかく負の図鑑みたいなところがあって、文学や物語における〈正しさ〉を反転させていった極北みたいなところにいる文学者だと思うんですが、そうしたある種、〈正しさ〉をひっくりかえしてそのひっくりかえった場所を語る視座は川柳、とくに現代川柳に近いんじゃないかとおもいます。
たとえば文学や物語ではなにか起こること、起きてしまうこと、生じること、あることが特権化されます。
なにかが起こることによって人物は成熟できるからです。
ところがベケットの作品では、基本的になにかが起こらない。〈起こらない〉ということが蔓延し、〈起こらない〉ことをめぐって人物たちが動いて、いや、停滞していきます。
でも〈ない〉だけでは成立しない。その〈ない〉を成立させているのはなにかというと言語=ことばです。
だからベケットの作品はたびたび言語そのものに還ってゆくようなふるまいをみせます。たとえば口だけになったり、声だけになったりとか。イヴェント性を否定しつつ、ことばのもとに消えてゆく主体です。そこにあるのは生のことばと場所と時間だけになります。
この嶋澤さんの句も「何見てる」ときかれ「何にも」と答えることによって〈なにもない〉ことが生じています。ベケットの『ゴドーを待ちながら』のふたりぐみがいいそうなセリフです。ただそこに「春の午後」という時間性が付与されています。『ゴドー』においてもふたりの会話はほとんど無意味でしたが、ト書きには「木が立っている」とやはり時間性が付与されていました(「木」は生長したり枯れたりしますから時間性だとおもうのです)。
演劇は、映画・ビデオ・小説と違い、〈始まったら・終わる〉性の強いものです。途中で巻き戻したり、とめたりできません。いま上演されつつある他者の身体が介在しているからです。その身体も進行中です。とちゅうでとめることはできない。だからセリフを忘れたとしても進行していくのが演劇です。セリフがとんでも、黙っていても、ともかく時間は進行していくし、終わりにちかづいていく。だからこそ、なにもないイヴェント性と親和性が強いのではないかとおもうのです。ともかく叫んでいても、無駄話でも演劇は成立することができる(チェルフィッチュのコンビニをめぐる演劇「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」は、コンビニの内実を事細かに語っていくやはり出来事性のない演劇です。そこで特権化されるのはいかに身体に無駄をつのらせ、手足を無意味にぶらぶらさせるか、無駄な修辞のついた無駄口をたたいていけるかです)。
定型もじつはそうした演劇に近い側面をもっているのではないかともおもうのです。始まったら・終わるのが定型です。だからイヴェントは起こらなくてもいい。なぜなら、定型それ自体がすでにイヴェントだからです。
だから演劇と定型は、そのパッケージングがすでにイヴェント的であって、その点においてちょっと似ているのではないかとおもうのです。
だからその定型の空間や舞台の空間では〈なにもない〉ことを展開することもできる。もしくはそのなかであえて〈なにかをする〉と、〈〈なにかをする〉をしているひと〉として異化されてしまう(これはたとえば寺山修司の〈虚構〉に近いのではないかと思います)。
そういう定型のイヴェント性があらかじめ付加=負荷されているのが、そして〈そこ〉から無意識に定型内部でのみずからのふるまいを考えているのが川柳や定型詩なのではないかとおもったりするのです。それはぽんとつきだされて舞台に暴力的にたたされたときのように。
フライングしたのは影かわたくしか 嶋澤喜八郎
〈定型〉というのは、潜水艇のようなものです。
黄色い意識の海溝に降りて行きます。
しゅんしゅんしゅんっと探索します。
プランクトンの死骸だっても、犬の入歯であっても、それが意識の断片であるならば、とりあえず採集してきたい、と思うのです。
〈定型〉は、オートマティスムのツールです。
*〈定型〉というのは、〈私〉〈語り手〉〈主人公〉のいずれでもない、第四の何者か、です。だれの言うことも聞き入れません。
クライアントである〈語り手〉は「か・が・や・く・ひ・ま・わ・り」を要求しても、〈定型〉というシステムは「か・れ・た・ひ・ま・わ・り」を返してきます。
〈定型〉は、手のつけられない幼帝です。
*〈定型〉というのは、奇妙なコーディネーターです。
口語と文語の仲介をします。
古典と現代の言葉を結びつけます。
「フレディー・マーキュリー」と「マネキンのほそい頭」の仲をとりもちます。なんでも、強引に婚姻させます。
*〈短歌のゆくえ〉を言いあてる最善の方法。それは、やってしまうことだ。
加藤治郎「イル」『現代詩手帖 短詩型のゆくえ』1992・4
定型詩は困る。
だって「これ短歌です」って人にみせたら、読む前からそれが三十一音で終わることがばれてしまうではないか。あるいはそこまでは終わらないことが。
何がはじまるのか見当もつかない、というのが理想だと思うけど。違うのかな。
それでも定型を選んでしまうのは、例えその先っぽから弾が飛び出すことがばれていても、ピストルの方が〈呪い〉よりも思いきり相手を殺すことができる、と思い込むせいかもしれない。
だけど自分の手の中にあるのが本当にピストルだという保証はない。全然ない。
どっちかっていうと詩なんて呪いの一種みたいなもんだろう。
そうなると定型について考えることは、呪いをかける時の手つきや腰の振り方を考えることだ。
それならひとりひとりが好きなように腰を振って試してみるしかないだろう。
その腰の振り方は同じにみえて違うかも知れないし、その逆かも知れない。
あとはその呪いが効くか効かないか、だ。
穂村弘「おとといきやがれ」『現代詩手帖 1992・4』
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