【感想】こんにちはわたしは日本です長所は戦争しないこと、それくらい 北城椿貴
- 2015/05/25
- 00:43
こんにちはわたしは日本です長所は戦争しないこと、それくらい 北城椿貴
【文体としての〈日本〉】
NHK短歌で斉藤斎藤さんが選者をされていたときの題「日本」の放送回(最終回)のときから北城さんの一句です。
放送でじっさいみていたんですがこの北城さんの短歌の「こんにちはわたしは~です」という文体によって〈日本〉を詠んだことがこの短歌のひとつの力点になっているのではないかとおもうんです。
この回の題は「日本」でしたから、おのずと「日本」ってなんだろう、っていうふうにテーマが寄っていかざるをえないとおもうんですね。
でもこの北城さんの短歌からわかるのは、〈日本〉というナショナリティやナショナル・アイデンティティがじつは〈発話〉そのものによって成立してしまう事態、「こんにちはわたしは日本です」とことばにしたしゅんかん、〈成立〉してしまうようなそういう〈日本〉を描いているところなんじゃないかとおもうんです。意味を込めようとする〈内実〉や〈欲動〉よりも、〈文体〉としての〈日本〉をめぐる〈形式〉として。
実は発話っていうのは同時に行為でもあるし、アイデンティティっていうのは所与のものとしてはじめから与えられるものじゃなくて、みずから何度も繰り返し発話していくことによって備わっていくものなんだっていうことなんじゃないかとおもうんです。
「こんにちは」という初句はそれが日常・習慣的に繰り返し発話されることをあらわしています。
またもう一方で大事だとおもうのが、「こんにちは」という発話はかならず対他関係にあることばだということです。ひとは、ひとりで、こんにちはとはいわないので。
そうすると、まず発話という行為によって〈日本〉がつくられ、それが他者とのことばの日常的な往還関係によっても同時につくられていくんだということがすくなくともこの短歌から、わかる。
〈日本〉っていうのはじつは誰にもわからなくて、もしかしたら歴史的に新しいアイデンティティかもしれなくて、「、それくらい」としか否定的に定義してゆくしかない〈不可解〉で〈不分明〉なナショナリティかもしれなあいけれど、でもそれが〈ことば〉からもしかしたら構築されているものであるかもしれないこと。「、それくらい」の内容を時代時代によって変えながら。
そういう〈日本〉を31音で描いている短歌なんじゃないかなっておもいました。
最後に、凧を──。
わたしはアイデンティティは凧のようなものだと思っています。
凧というのは一本の糸で地面と繋がっていますが、アイデンティティの凧には多数の糸があります。
でも何かが話題になったときには、一本の糸だけ(あるいはそのなかの特定の複数の糸だけ)が強調される。
たとえば女であったり、日本人であったり、大学教授であるというように。
アイデンティティは多数の係留点をもっているにもかかわらず──だから網の目をみずからの内にかかえてはいますが──けっして浮遊はしないのです。
竹村和子『現代思想 ジェンダー・スタディーズ』
【文体としての〈日本〉】
NHK短歌で斉藤斎藤さんが選者をされていたときの題「日本」の放送回(最終回)のときから北城さんの一句です。
放送でじっさいみていたんですがこの北城さんの短歌の「こんにちはわたしは~です」という文体によって〈日本〉を詠んだことがこの短歌のひとつの力点になっているのではないかとおもうんです。
この回の題は「日本」でしたから、おのずと「日本」ってなんだろう、っていうふうにテーマが寄っていかざるをえないとおもうんですね。
でもこの北城さんの短歌からわかるのは、〈日本〉というナショナリティやナショナル・アイデンティティがじつは〈発話〉そのものによって成立してしまう事態、「こんにちはわたしは日本です」とことばにしたしゅんかん、〈成立〉してしまうようなそういう〈日本〉を描いているところなんじゃないかとおもうんです。意味を込めようとする〈内実〉や〈欲動〉よりも、〈文体〉としての〈日本〉をめぐる〈形式〉として。
実は発話っていうのは同時に行為でもあるし、アイデンティティっていうのは所与のものとしてはじめから与えられるものじゃなくて、みずから何度も繰り返し発話していくことによって備わっていくものなんだっていうことなんじゃないかとおもうんです。
「こんにちは」という初句はそれが日常・習慣的に繰り返し発話されることをあらわしています。
またもう一方で大事だとおもうのが、「こんにちは」という発話はかならず対他関係にあることばだということです。ひとは、ひとりで、こんにちはとはいわないので。
そうすると、まず発話という行為によって〈日本〉がつくられ、それが他者とのことばの日常的な往還関係によっても同時につくられていくんだということがすくなくともこの短歌から、わかる。
〈日本〉っていうのはじつは誰にもわからなくて、もしかしたら歴史的に新しいアイデンティティかもしれなくて、「、それくらい」としか否定的に定義してゆくしかない〈不可解〉で〈不分明〉なナショナリティかもしれなあいけれど、でもそれが〈ことば〉からもしかしたら構築されているものであるかもしれないこと。「、それくらい」の内容を時代時代によって変えながら。
そういう〈日本〉を31音で描いている短歌なんじゃないかなっておもいました。
最後に、凧を──。
わたしはアイデンティティは凧のようなものだと思っています。
凧というのは一本の糸で地面と繋がっていますが、アイデンティティの凧には多数の糸があります。
でも何かが話題になったときには、一本の糸だけ(あるいはそのなかの特定の複数の糸だけ)が強調される。
たとえば女であったり、日本人であったり、大学教授であるというように。
アイデンティティは多数の係留点をもっているにもかかわらず──だから網の目をみずからの内にかかえてはいますが──けっして浮遊はしないのです。
竹村和子『現代思想 ジェンダー・スタディーズ』
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