【感想】墓場から出できしゾンビ先生の肋骨(あばら)の白がやさしすぎるよ 笹公人
- 2014/05/29
- 08:39
墓場から出できしゾンビ先生が土葬の危険熱く語れり
墓場から出できしゾンビ先生の体の穴から覗く秋空
墓場から出できしゾンビ先生の肋骨(あばら)の白がやさしすぎるよ
墓場から出できしゾンビ先生よマジありがとう火葬にします
笹公人
【ゾンビ先生から教えてもらったこと】
笹さんの短歌の場合、おおくのサブカルチャー的記号を短歌に組み込みながらも、サブカルチャーとしての〈むこう側〉にそのまま投げないで短歌としての〈こちら側〉に回収していくというのが基本的に意味をスパークさせる魅力としてあるのではないかと思います。
たとえば上のゾンビ先生の連作でいえば、「ゾンビ」や「~先生」といったサブカルチャー記号がさまざまなアニメやドラマやマンガやラノベの文脈を引き寄せるのですが、それらアニメやドラマやラノベやマンガの文脈を知らなくても楽しむことができるのは、短歌という言説内においてひとまず短歌としての物語を形成しているからだとおもうんです。
たとえば、「体の穴から覗く秋空」や「肋骨の白がやさしすぎるよ」というのは叙情です。叙情というのは定義するのが難しいんですが、ここではひとまず「叙述」との対照から、何かを語りつつも(叙述)その語るということそのものが語り手の感情を吐露することそのものにつながっていくことを〈叙情〉とします。
「体の穴から覗く秋空」とは、ゾンビ先生の隙間からかいまみえる秋空を語り手が叙述することで、ゾンビ先生が語り手とは違う身体をもった存在である寂しさ、しかしそれでもそこには空があること、空へとつながっていくような希望といった語り手の感情がうたわれているとおもうんですね。「肋骨の白がやさしすぎるよ」にしても、「肋骨の白」に「やさし」さを感じているのは語り手です。
そんなふうにサブカルチャー的記号を短歌としての叙情におきかえること(笹さんの歌集のタイトルにまさに『抒情の奇妙な冒険』があります)が、笹さんの短歌の魅力なのではないかと思います。
もうすこしひろげた言い方をしてみるならば、サブカルチャー的記号を〈叙情〉的に組み直してみることにより、短歌における〈わたくし〉としての語り手を、文化生成としての〈わたくし〉に置き換えていく、ただ語ることによる自足した語り手としてのわたしではなく、文化や歴史に積極的にかかわっていく行為体としての短歌における〈わたし〉のありかたをさぐっていく。
それが笹さんの短歌の魅力なのではないかとおもいます。
ゾンビ映画のキモは、無い無い尽くしにある。ゾンビは生きても死んでもいない。男でも女でもないし白人でも黒人でもない。支配者でも被支配者でもない。主体でも対象でもない。ゾンビは二分法を横断するのでも攪乱するのでもなく、端的にどちらでもないのだ。したがって、ゾンビは順応するのでも抵抗するのでもない。ゾンビは生物でも怪物でも機械でもサイボーグでもない。ゾンビは増殖するにしても生成変化することも進化することも退化することもない。ゾンビに未来はない。サヴァイバーもそのうち死ぬだけである。ゾンビ映画にはいかなる解決もカタルシスもない。ゾンビ映画に対してはいくらでも解釈や批評は加えられるとしても、ゾンビ映画のキモは、現代思想がエンドゲームにしかならないと告げているところにある。
小泉義之「デッドエンド、デッドタイム」
墓場から出できしゾンビ先生の体の穴から覗く秋空
墓場から出できしゾンビ先生の肋骨(あばら)の白がやさしすぎるよ
墓場から出できしゾンビ先生よマジありがとう火葬にします
笹公人
【ゾンビ先生から教えてもらったこと】
笹さんの短歌の場合、おおくのサブカルチャー的記号を短歌に組み込みながらも、サブカルチャーとしての〈むこう側〉にそのまま投げないで短歌としての〈こちら側〉に回収していくというのが基本的に意味をスパークさせる魅力としてあるのではないかと思います。
たとえば上のゾンビ先生の連作でいえば、「ゾンビ」や「~先生」といったサブカルチャー記号がさまざまなアニメやドラマやマンガやラノベの文脈を引き寄せるのですが、それらアニメやドラマやラノベやマンガの文脈を知らなくても楽しむことができるのは、短歌という言説内においてひとまず短歌としての物語を形成しているからだとおもうんです。
たとえば、「体の穴から覗く秋空」や「肋骨の白がやさしすぎるよ」というのは叙情です。叙情というのは定義するのが難しいんですが、ここではひとまず「叙述」との対照から、何かを語りつつも(叙述)その語るということそのものが語り手の感情を吐露することそのものにつながっていくことを〈叙情〉とします。
「体の穴から覗く秋空」とは、ゾンビ先生の隙間からかいまみえる秋空を語り手が叙述することで、ゾンビ先生が語り手とは違う身体をもった存在である寂しさ、しかしそれでもそこには空があること、空へとつながっていくような希望といった語り手の感情がうたわれているとおもうんですね。「肋骨の白がやさしすぎるよ」にしても、「肋骨の白」に「やさし」さを感じているのは語り手です。
そんなふうにサブカルチャー的記号を短歌としての叙情におきかえること(笹さんの歌集のタイトルにまさに『抒情の奇妙な冒険』があります)が、笹さんの短歌の魅力なのではないかと思います。
もうすこしひろげた言い方をしてみるならば、サブカルチャー的記号を〈叙情〉的に組み直してみることにより、短歌における〈わたくし〉としての語り手を、文化生成としての〈わたくし〉に置き換えていく、ただ語ることによる自足した語り手としてのわたしではなく、文化や歴史に積極的にかかわっていく行為体としての短歌における〈わたし〉のありかたをさぐっていく。
それが笹さんの短歌の魅力なのではないかとおもいます。
ゾンビ映画のキモは、無い無い尽くしにある。ゾンビは生きても死んでもいない。男でも女でもないし白人でも黒人でもない。支配者でも被支配者でもない。主体でも対象でもない。ゾンビは二分法を横断するのでも攪乱するのでもなく、端的にどちらでもないのだ。したがって、ゾンビは順応するのでも抵抗するのでもない。ゾンビは生物でも怪物でも機械でもサイボーグでもない。ゾンビは増殖するにしても生成変化することも進化することも退化することもない。ゾンビに未来はない。サヴァイバーもそのうち死ぬだけである。ゾンビ映画にはいかなる解決もカタルシスもない。ゾンビ映画に対してはいくらでも解釈や批評は加えられるとしても、ゾンビ映画のキモは、現代思想がエンドゲームにしかならないと告げているところにある。
小泉義之「デッドエンド、デッドタイム」
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