【感想】もし僕が死んだときには棺桶におっぱいを敷き詰めてください じゃこ
- 2015/05/25
- 01:08
もし僕が死んだときには棺桶におっぱいを敷き詰めてください じゃこ
【こんなにも無数のおっぱいのなかで彼は葛藤している】
じゃこさんの短歌を読んでいてわたしがおもしろいなとおもうことのひとつに〈快楽原則〉を〈ことば〉という他者を経由しなければならない手段をつかってどう〈共有〉していけるかをさぐっているようにもおもうんですね。
たとえばこの上の短歌なんですが、このおっぱいが敷き詰められた棺桶というのはおそらく快楽原則に満ち満ちているわけです。口唇欲望とか、幼児期のいろんな欲望がうずまいている。
でも大事なのはただたんに快楽原則に支配される棺桶なのではなくて、それが〈懇願〉のまず形式(スタイル)をとっているということが大事なのではないかと思うんです。
「敷き詰めてください」と〈お願い〉しているわけです。〈お願い〉というのは〈手紙〉といっしょで〈届かない可能性〉もある。とくに「僕が死んだ」あとのことなので、「僕」には確認しようがない。だからたとえその場でお願いした他者が「はい」といってくれたとしても、それは果たされないお願いとして僕の〈イメージ〉でしか果たせないおそれもある。
この短歌はそこにひとつおもしろさがあるんじゃないかとおもうんです。
意味内容としては快楽原則に満ち満ちているんだけれども、ところが形式的には現実原則が立ちはだかっている。棺桶ですから、「僕」の「死」もそうです。これは〈どうこうすることのできない〉現実です。
おっぱいを敷き詰めることに関しては「僕」は〈どうこうできるかもしれない〉万能感がある(と思う)のだけれど、「僕」の「死」に対しては(おそらく)あきらめえている。
ここにこの短歌の快楽/現実の〈/(フリクション)〉があるようにおもうんです。こんなにも無数のおっぱいのなかで彼は葛藤している。
これはじゃこさんのたとえばこんな短歌にもあらわれています。
いいことがなくてもあったことにしてハーゲンダッツ食べてもいいよ じゃこ
これもある意味、おっぱいが敷き詰められると思える万能感があります。「いいことがなくてもあったことに」できる万能感です。
でもやっぱり大事なのはこれがじぶんでじぶんに投げかけていることばというよりは、誰かがいってくれたことばだということです。つまり万能感は他者がもたらしてくれたということになります。そこでおそらくわたしはわたしに問いかけることになる。
あなたは「いいよ」といったが、ほんとうに、それで「いい」のかと。
ハーゲンダッツは、有限です。アイスクリームは時間性の食べ物です。どんどん、溶けていきます。決断しなければならない。ほんとうに「いい」のか、「いい」くないのか(よくないのか)を。
これは、反措定ともいえる記述法です。たとえば「ハーゲンダッツ食べてもいいよ」ならひとは葛藤せずに食べられるわけです。るんるんと。
でも「いいことがなくてもあったことにして」とことばにされてしまったら、ハーゲンダッツを食べたしゅんかん、わたしはきがついてしまうわけです。わたしは「いいことがなくてもあったことにして」しまったにんげんなのだと。
それをわたしはほんとうにわたしとしてうけいれられるのか、どうか。
ハーゲンダッツと善をめぐるフリクション=葛藤。
こういう反措定のやはり語り口に、快楽原則だけとはいえないような〈深み〉がるようにおもいます。
たとえばこんな短歌もそうです。
わたし今しあわせすぎてお隣のお庭にできた柿もとらない じゃこ
「しあわせすぎ」るはずなのになぜ「お隣のお庭にできた柿」と具体的描写ができるのか。とろうとしているのではないか。ほんとうにしあわせすぎるのであれば、描写はあいまいもことしていていいのではないか。
ここにも、こんなふうにおもしろいフリクションがあるとおもいます。
では敷き詰められたおっぱいで始まった文章だったので、以前もおっぱい短歌をまとめたときに引用したのですが、こんな〈千のおっぱい〉をめぐる文章を引用してこんかいは終わりにしたいとおもいます。
大事なことは、おそらく、隠れた〈/(フリクション)〉をいかにさがすか、ということなのではないでしょうか、たとえおびただしいおっぱいのさなかにあっても。
試しに千のおっぱいを思い浮かべて、それが二十五メートルプールにぎゅうぎゅう詰めになっているところを想像してみる。
そこで平泳ぎをするというような、いやらしいことは考えない。
僕自身はそこに入っちゃ駄目だ。
ただ空気みたいにふわりと宙を舞い、そっと見下ろす。
敷き詰められたおっぱいは、かすかな風が吹くたびに上下して柔らかく揺れる。
誰もいない。声も聞こえない。
寒くもなく暖かくもない。
人間はとっくに滅びて、残されたのは僕とおっぱいだけだ。
おっぱいたちはひっくり返ることもなくちゃんと上を向いて整列している。
あるがまま。
ゆっくりとたゆたいながらここそこをただ眺めるだけ。
大森兄弟『松ぼっくいとセミの永遠』
【こんなにも無数のおっぱいのなかで彼は葛藤している】
じゃこさんの短歌を読んでいてわたしがおもしろいなとおもうことのひとつに〈快楽原則〉を〈ことば〉という他者を経由しなければならない手段をつかってどう〈共有〉していけるかをさぐっているようにもおもうんですね。
たとえばこの上の短歌なんですが、このおっぱいが敷き詰められた棺桶というのはおそらく快楽原則に満ち満ちているわけです。口唇欲望とか、幼児期のいろんな欲望がうずまいている。
でも大事なのはただたんに快楽原則に支配される棺桶なのではなくて、それが〈懇願〉のまず形式(スタイル)をとっているということが大事なのではないかと思うんです。
「敷き詰めてください」と〈お願い〉しているわけです。〈お願い〉というのは〈手紙〉といっしょで〈届かない可能性〉もある。とくに「僕が死んだ」あとのことなので、「僕」には確認しようがない。だからたとえその場でお願いした他者が「はい」といってくれたとしても、それは果たされないお願いとして僕の〈イメージ〉でしか果たせないおそれもある。
この短歌はそこにひとつおもしろさがあるんじゃないかとおもうんです。
意味内容としては快楽原則に満ち満ちているんだけれども、ところが形式的には現実原則が立ちはだかっている。棺桶ですから、「僕」の「死」もそうです。これは〈どうこうすることのできない〉現実です。
おっぱいを敷き詰めることに関しては「僕」は〈どうこうできるかもしれない〉万能感がある(と思う)のだけれど、「僕」の「死」に対しては(おそらく)あきらめえている。
ここにこの短歌の快楽/現実の〈/(フリクション)〉があるようにおもうんです。こんなにも無数のおっぱいのなかで彼は葛藤している。
これはじゃこさんのたとえばこんな短歌にもあらわれています。
いいことがなくてもあったことにしてハーゲンダッツ食べてもいいよ じゃこ
これもある意味、おっぱいが敷き詰められると思える万能感があります。「いいことがなくてもあったことに」できる万能感です。
でもやっぱり大事なのはこれがじぶんでじぶんに投げかけていることばというよりは、誰かがいってくれたことばだということです。つまり万能感は他者がもたらしてくれたということになります。そこでおそらくわたしはわたしに問いかけることになる。
あなたは「いいよ」といったが、ほんとうに、それで「いい」のかと。
ハーゲンダッツは、有限です。アイスクリームは時間性の食べ物です。どんどん、溶けていきます。決断しなければならない。ほんとうに「いい」のか、「いい」くないのか(よくないのか)を。
これは、反措定ともいえる記述法です。たとえば「ハーゲンダッツ食べてもいいよ」ならひとは葛藤せずに食べられるわけです。るんるんと。
でも「いいことがなくてもあったことにして」とことばにされてしまったら、ハーゲンダッツを食べたしゅんかん、わたしはきがついてしまうわけです。わたしは「いいことがなくてもあったことにして」しまったにんげんなのだと。
それをわたしはほんとうにわたしとしてうけいれられるのか、どうか。
ハーゲンダッツと善をめぐるフリクション=葛藤。
こういう反措定のやはり語り口に、快楽原則だけとはいえないような〈深み〉がるようにおもいます。
たとえばこんな短歌もそうです。
わたし今しあわせすぎてお隣のお庭にできた柿もとらない じゃこ
「しあわせすぎ」るはずなのになぜ「お隣のお庭にできた柿」と具体的描写ができるのか。とろうとしているのではないか。ほんとうにしあわせすぎるのであれば、描写はあいまいもことしていていいのではないか。
ここにも、こんなふうにおもしろいフリクションがあるとおもいます。
では敷き詰められたおっぱいで始まった文章だったので、以前もおっぱい短歌をまとめたときに引用したのですが、こんな〈千のおっぱい〉をめぐる文章を引用してこんかいは終わりにしたいとおもいます。
大事なことは、おそらく、隠れた〈/(フリクション)〉をいかにさがすか、ということなのではないでしょうか、たとえおびただしいおっぱいのさなかにあっても。
試しに千のおっぱいを思い浮かべて、それが二十五メートルプールにぎゅうぎゅう詰めになっているところを想像してみる。
そこで平泳ぎをするというような、いやらしいことは考えない。
僕自身はそこに入っちゃ駄目だ。
ただ空気みたいにふわりと宙を舞い、そっと見下ろす。
敷き詰められたおっぱいは、かすかな風が吹くたびに上下して柔らかく揺れる。
誰もいない。声も聞こえない。
寒くもなく暖かくもない。
人間はとっくに滅びて、残されたのは僕とおっぱいだけだ。
おっぱいたちはひっくり返ることもなくちゃんと上を向いて整列している。
あるがまま。
ゆっくりとたゆたいながらここそこをただ眺めるだけ。
大森兄弟『松ぼっくいとセミの永遠』
- 関連記事
-
-
【感想】コンセントへ刺そうとしたら向こうからすでに刺されていたのでやめた 伊舎堂仁 2014/10/06
-
【感想】内田百閒に「飛ぶ」と「伝う」が多しという気にかかりつつ酒飲んでいる 佐佐木幸綱 2015/07/29
-
【感想】もう追うな 回遊槽に銀色のさかなは廻りつづけていても 錦見映理子 2014/10/17
-
【感想】たましいのやどらなかったことばにもきちんとおとむらいをだしてやる 笹井宏之 2014/12/07
-
【感想】脇役のようにたたずむ 地下鉄のホームの隅で咳をしながら 工藤吉生 2014/12/04
-
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌感想