猫の森に帰ったあとで猫と書いたあとがき-わたしはシリアスににゃあと綴った-
- 2015/05/26
- 23:32
にゃにゃあにゃあにゃあにゃあにゃにゃあ【訳:君は私をそっと抱き上げるべき】 柳本々々
安福望さんに上記の短歌を絵にしていただきました。ありがとうございました!
「飼い猫を灯す」
こないだ岡野大嗣さんの歌集を読みながら歌集のなかにある安福さんの挿絵をずっとみていたのですが、安福さんの絵のひとつの特徴に〈表情で方向付けをしない〉ということがあるようにおもうんです。
表情をあえていれない、というのはどういうことなのか。
今回私の短歌で描いていた絵から表情だけに注目してたとえば切り取って引用させていただくならば安福さんの絵の〈表情〉はこうです。人物にも、猫にも、表情の方向付けはありません。
では、表情の方向付けがある絵とは、どうなるのでしょう。すこし参考に御前田あなたから人物と猫(表情「弱り」)の絵をあげてみたいとおもいます。

安福望さんに上記の短歌を絵にしていただきました。ありがとうございました!
「飼い猫を灯す」
こないだ岡野大嗣さんの歌集を読みながら歌集のなかにある安福さんの挿絵をずっとみていたのですが、安福さんの絵のひとつの特徴に〈表情で方向付けをしない〉ということがあるようにおもうんです。
表情をあえていれない、というのはどういうことなのか。
今回私の短歌で描いていた絵から表情だけに注目してたとえば切り取って引用させていただくならば安福さんの絵の〈表情〉はこうです。人物にも、猫にも、表情の方向付けはありません。
では、表情の方向付けがある絵とは、どうなるのでしょう。すこし参考に御前田あなたから人物と猫(表情「弱り」)の絵をあげてみたいとおもいます。

〈表情の方向付け〉があるとどうなるのかというと、基本的に絵を観るひとは〈表情〉に注目し、表情でその絵の意味の枠組みをつくり、ある場合においては表情だけでその絵を完結させてしまうことがあるのではないかとおもうんです。
たとえばですね、エッセイ4コママンガっていうのは表情がすごく豊かですが、それはある意味4コマだと身体として表現しているひまがないからです。1コマ1コマで的確に意味を伝えていかないと4コマ目で〈落と〉せないので、表情が重要になります。
ところが、たとえば荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』は、〈無表情〉で〈クール〉な〈表情〉が多いとおもうんですが、これはジョジョというマンガが基本的に〈所作〉や〈姿態〉、まさに〈スタンド〉をみてくれっていうマンガだからではないかとおもうんです。
これはたとえば無声喜劇を無表情で演じたバスター・キートンにもいえるのではないかとおもいます。身体をみてくれ、です。身体や所作・行為・状況から意味を構築してくれ、と。
だから安福さんの絵を観たひとは〈表情〉を特権化してそこから意味をつくりだしていくというよりは、全体の構図や動物との関係、どんな場所にたっているか、どういった食べ物と関係をむすんでいるのか、なにが反復されているのか、どういったからだの所作や姿態なのか、という全体的な絵の関連付けを行いながら観ているひとがその絵の意味をかんがえていくのではないかとおもうんです。
でも実はこれって短歌もそうなのではないかとおもうのです。よく短歌入門書で書かれているのが、かなしいやうれしいをそのまま使ってはだめ、そのまま表現してはだめだということですが、これってある意味、〈表情〉をそのまま描いてはだめ、ってことだとおもうんです。
〈表情〉は直接あらわすのではなくて、定型のなかのことばの配置から生まれてくるんだと。
安福さんの絵も人物や動物や食べ物や星や森や火花がどんなふうに〈配置〉されているかということから〈表情〉がうまれてきているのではないかとおもうのです。
ちなみにわたしのすきな歌に谷山浩子さんの「ねこの森には帰れない」という歌があるんですが、その歌のなかで「ねこの森には帰れない ここでいいひとみつけたから」という歌詞があります。
「ここで」といっているけれど「ねこの森」のことをずっとうたった歌です。でも「ねこの森」には「帰れない」うたです。この語り手=歌い手にはたぶん〈わたしのここ〉という場所が、ない。
でも、〈表情〉はたぶんいつも〈ここではないどこか〉と関連づけされながら生まれてくるのではないかと、おもうのです。
そこに〈表情〉としての「ねこの森」があるんじゃないかと。
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