【感想】龍翔さん、妹尾凛さん、芳賀博子さんといっしょにこんぺいとうを食べてみる。
- 2015/05/27
- 06:18
いたいいたいのがとんでゆくおくすりとおもっていたの こんぺいとうを 龍翔
さみしいものをさがしてごらん金平糖 妹尾凛
金平糖ここからだとも思うんだ 芳賀博子
【誰でも使えたはずの魔法、こん・ぺい・とう】
以前からこんぺいとうって不思議だなと思っていて、とくに短詩のなかで妹尾凛さんの金平糖の句をみたときからずっと気になっていました。
で、この金平糖のみっつの短詩を並べてわかるのは、こんぺいとうがマジカルな食べ物だということです。
龍翔さんの歌にも語られています。「いたいいたいのがとんでゆくおくすり」と。「いたいいたいのとんでゆけ」というのはそもそもが〈おまじない〉です。いうなれば、呪言であって、ことばであり、テクストです。
でもそれが物象化された〈おくすり〉が「こんぺいとう」だといっています。かつ同時に、「こんぺいとう」が」おくすり」でなかったことにも〈いま〉語り手は気がついています。魔法が解けるしゅんかんです。
この歌の一字空きにはおそらくこんぺいとうがおくすりでなかったことの諦念と、これからマジックなしに生きていかなければならない決意があるんじゃないかなとおもったりもします。この一字空きはそういった意味で、すごく短くて・ながい距離です。
でもこんぺいとうは語り手にとってマジカルななにかであったことはたしかです。
妹尾さんの句では「さみしいものをさがしてごらん」の七七のあとに「金平糖」という五音が置かれています。
下五で「金平糖」が上七中七を受け止めてくれるから、なんだかすっと意味をナチュラルに受け取ることができそうな一句ですが、よくよくかんがえてみるとふしぎだとおもいませんか、「さみしいものをさがしてごらん」というのは。「さみしくないもの、さみしくならないでいいものをさがす」ならわかります。でもどうして「さみしいもの」をあえて「さが」さなくてはならないのか。
それは龍翔さんの歌に対するふしぎな応答にもなっているとおもうんですよ。
龍翔さんの歌ではこんぺいとうの魔法が解除されていました。そこからあの歌の語り手はげんじつへと生きていかなければならなかった。
この妹尾さんの句でも、むしろ〈さみしいもの〉=〈欠けているもの〉をさがすことによって〈そこ〉から始めなければならないのではないか。欠けてしまった自身として、それでもその欠けたさみしさをひきうける自身として。
それを「金平糖」という五音が、それまでの七七から二音欠けた「こんぺいとう」がひきうけているのではないかとおもうのです。
そうするとこんどはそこに芳賀博子さんの金平糖の句が応答していきます。
「ここからだとも思うんだ」。魔法が解除された場所、さみしさをみつけてしまった場所、金平糖をめぐるマジカルとげんじつの場所、そこから〈もういちど〉はじめてみること。それが芳賀さんの金平糖の句なのではないかともおもうんです。
結語の「だ」は「こ・ん・ぺ・い・と・う」というやさしい音律からは得られない〈ゆるぎない決意〉です。
「ここから」生きていこうとすることの。
「春なのにお別れですか」ではなくて春だからこそお別れなのだ 龍翔
目があったとたんしゅるんと消えた影 妹尾凛
ここからはぼろぼろ素手で掘る記憶 芳賀博子
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短詩型まとめ