【川柳】手話だけで…(「印象吟」『川柳マガジン』2014年6月号 佳作・加藤鰹 選)
- 2014/05/30
- 07:16
手話だけでゆっくりきみが伝わった 柳本々々
(「印象吟」『川柳マガジン』2014年6月号 佳作・加藤鰹 選)
【ゆめの領域としての川柳-ディスイズアゆめ-】
以前、月波与生さんの「悲しくてあなたの手話がわからない」という句の感想文を書いてみたのだが、月波さんのその句を日々かんがえているうちに、〈手話〉という非言語的コミュニケーションの独特の浸透性と非浸透性についておもう日々のなかでつくってみた句である。
川柳には、印象吟というのがあって、あるイメージ(絵や写真、記号など)をみて句を詠むという独特のシステムがある。
あるイメージをみて句をつくるというのは短歌にはほとんどないことなので、川柳独特のおもしろいシステムだとおもう。
印象吟という独特のシステムからひとつ思うことは、たいていは題詠としてあるお題としての言語が与えられ、その言語を軸にして寄り添いつつ言語の連なり(シンタクス)と選択(パラディグム)を行う言語→言語としての〈翻訳〉になるはずなのだが、印象吟の場合はイメージであるため、言語から言語へのうつしかえではなく、イメージ→言語というふだんことばですくわれていない、公式化されていないような場所にはいっていくことになる。
この公式化されていないような場所というのが、実は川柳の短歌や俳句とのちがいなのではないかとおもったりもする。
短歌は、575という上の句に77という下の句がつくため、構造的な表現形式である。というよりも、構造的にしないと77がどうしても効いてこない。作歌するひとが上の句と下の句の関係性をつねにかんがえ論じているのあそのためだし、そもそも古代においては5音が呪詞、7音がその呪詞の意味内容という構造的連関があったらしい。
俳句は、季語という巨大な他者としてのシステムがある。このシステムによって短い形式ながらも季語をとおしてその他の句と連携しつつ差異化することによって構造をつくることができる。
川柳は、下の句も、季語もない。川柳が、短歌や俳句にくらべて、夢のようなアナーキーをもつのはそのためではないかとおもう。というよりも、印象吟のようなイメージを言語化するシステムに川柳が親和性をもつように、川柳とは、夢の言語化にどことなく近い部分があるのではないかとおもう。
夢とは、言語を通さないかぎり構造化されているが、言語をとおした瞬間に構造化に挫折するような領域のことだ。
だから、川柳を詠むときに、わたしたちは、構造化されたものにであっているのだが、しかし、川柳として構造化した瞬間、わたしたちは負けている。なかはられいこさんの句に「げんじつはキウイの種に負けている」という句があるが、それはわたしたちが構造化しようとしている、もしくはしてみた「げんじつ」が構造化する必要のない「キウイの種」に負けてしまうからだ。
構造化する必要のないものは、それだけで強い。言語をとおさざるをえない「げんじつ」とはそれだけで負けているのだ。
しかしそれでもわたしたちはどこかでその「げんじつ」としての傷をかかえつつも、それでも「げんじつ」としての構造化するゆめをみる。
夢とは、構造化しきれないそのかぎりにおいて、無限にわたしたちの表象を吸収し、誘発するものでもあるから。
夢とは、そういった意味においては、そういった意味においてしか、おわらないものだ。
「げんじつ」とは「ゆめ」であり、いまめのまえにあるこの「ペン」も「げんじつ」としてのゆめだときづいたときに、またわたしたちの表現がはじまっている。
ディスイズアペンさあ夢を綴ろうよ 加藤鰹
(「印象吟」『川柳マガジン』2014年6月号 佳作・加藤鰹 選)
【ゆめの領域としての川柳-ディスイズアゆめ-】
以前、月波与生さんの「悲しくてあなたの手話がわからない」という句の感想文を書いてみたのだが、月波さんのその句を日々かんがえているうちに、〈手話〉という非言語的コミュニケーションの独特の浸透性と非浸透性についておもう日々のなかでつくってみた句である。
川柳には、印象吟というのがあって、あるイメージ(絵や写真、記号など)をみて句を詠むという独特のシステムがある。
あるイメージをみて句をつくるというのは短歌にはほとんどないことなので、川柳独特のおもしろいシステムだとおもう。
印象吟という独特のシステムからひとつ思うことは、たいていは題詠としてあるお題としての言語が与えられ、その言語を軸にして寄り添いつつ言語の連なり(シンタクス)と選択(パラディグム)を行う言語→言語としての〈翻訳〉になるはずなのだが、印象吟の場合はイメージであるため、言語から言語へのうつしかえではなく、イメージ→言語というふだんことばですくわれていない、公式化されていないような場所にはいっていくことになる。
この公式化されていないような場所というのが、実は川柳の短歌や俳句とのちがいなのではないかとおもったりもする。
短歌は、575という上の句に77という下の句がつくため、構造的な表現形式である。というよりも、構造的にしないと77がどうしても効いてこない。作歌するひとが上の句と下の句の関係性をつねにかんがえ論じているのあそのためだし、そもそも古代においては5音が呪詞、7音がその呪詞の意味内容という構造的連関があったらしい。
俳句は、季語という巨大な他者としてのシステムがある。このシステムによって短い形式ながらも季語をとおしてその他の句と連携しつつ差異化することによって構造をつくることができる。
川柳は、下の句も、季語もない。川柳が、短歌や俳句にくらべて、夢のようなアナーキーをもつのはそのためではないかとおもう。というよりも、印象吟のようなイメージを言語化するシステムに川柳が親和性をもつように、川柳とは、夢の言語化にどことなく近い部分があるのではないかとおもう。
夢とは、言語を通さないかぎり構造化されているが、言語をとおした瞬間に構造化に挫折するような領域のことだ。
だから、川柳を詠むときに、わたしたちは、構造化されたものにであっているのだが、しかし、川柳として構造化した瞬間、わたしたちは負けている。なかはられいこさんの句に「げんじつはキウイの種に負けている」という句があるが、それはわたしたちが構造化しようとしている、もしくはしてみた「げんじつ」が構造化する必要のない「キウイの種」に負けてしまうからだ。
構造化する必要のないものは、それだけで強い。言語をとおさざるをえない「げんじつ」とはそれだけで負けているのだ。
しかしそれでもわたしたちはどこかでその「げんじつ」としての傷をかかえつつも、それでも「げんじつ」としての構造化するゆめをみる。
夢とは、構造化しきれないそのかぎりにおいて、無限にわたしたちの表象を吸収し、誘発するものでもあるから。
夢とは、そういった意味においては、そういった意味においてしか、おわらないものだ。
「げんじつ」とは「ゆめ」であり、いまめのまえにあるこの「ペン」も「げんじつ」としてのゆめだときづいたときに、またわたしたちの表現がはじまっている。
ディスイズアペンさあ夢を綴ろうよ 加藤鰹
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