【感想】夏の海野郎大方アナルは処女 関悦史
- 2015/06/03
- 06:47
夏の海野郎大方アナルは処女 関悦史
【略述と厳密】
この句でまず面白いのが、「大方」だとおもうんですね。
ここにいる「野郎」の全員が「アナルは処女」なのではないわけです。
「大方アナルは処女」ということは、アナルが開通=開発されている「野郎」もいる。
その「大方」という部分規定が、この句のひとつの〈気分〉になっているのではないかとおもいます。
「夏の海」や「野郎」っていう言辞はひとつの開放感です。「夏」も「海」も「野郎」も記号としては〈大きい〉ですから〈開放感〉があります。「ばかやろう!」って叫ぶときってアバウトな罵詈雑言ですよね。「お前は3点しかこのテストで取れてなかったんだぞ!」とかいわれるとぐさっとくるわけです。つまびらかなので。それよりも「ばかやろう!」っていわれたほうが、らくなわけです。〈おおまかな記号〉だから。
ところが「大方アナルは処女」っていうのは厳密な記号だと思います。「大方」はさておくとしても「アナルは処女」かどうかは、これはゼロワンのある意味、デジタルな思考です。中間はないからです。しかも「大方」というのも量を規定しようとする視線ですから、〈厳密〉を志向しているとおもうんですね。「大方」は意味は〈だいたい〉だけれども、しかし語る行為としては〈アバウト〉ではない。〈大方=だいたい〉は〈だいたい(アバウト)〉ではたぶんないわけです。〈大方=だいたい〉という視線は〈規定〉しようとする行為だから。
だからこの句は、開放感としかしそれを規定する気分の対立としての〈クール〉がある句なんではないかとおもうんです。
「夏の海」から「アナル」としての「処女」に収束=終息していく点も、広大な場所から、点(ドット)へと凝縮していくベクトルです。
そういう視線が語り口とともにしぼられていく様相がひとつのおもしろさとなっている句なのではないかとおもいます。
かんがえてみると、ボーイズラヴとは、そのひとつの考え方として、〈視線の方向性と語り口の採択〉にあるのかもしれません。どう、なんでしょう。
Tシャツ内へ誰の手だ俺男なのに 関悦史
ボーイズラブ小説の奔流が私たちに迫るのは、美少年≒少女という解釈の上に成り立つどこか共感的な読書ではなく、完全に自分と切り離した少年や青年を想像のままに動かし、見る対象として愛玩しようとする欲望充足型の読書である。
「現実ではありえない」と、ロマンチックラブイデオロギーの虚偽を見抜いた上で、男どうしの性愛が無条件に成立する別世界を作り出し、それを操作することで生じる夢や妄想をむさぼろうとする大きなエネルギーが、ここにはある。
ボーイズラブというファンタジーを現出させるにあたって、作者であり読者でもある女性、少女たちは、〈母〉や、異性愛における〈女〉という女性役割の一部でなく、女性そのものから離れた。
女性であるという現実を切り捨て、母のいる家庭や異性愛の成就というなじみやすい目標からも離れた。
藤本恵「少女小説の水脈-〈母物メロドラマ〉という選択」『日本女性文学大事典』
【略述と厳密】
この句でまず面白いのが、「大方」だとおもうんですね。
ここにいる「野郎」の全員が「アナルは処女」なのではないわけです。
「大方アナルは処女」ということは、アナルが開通=開発されている「野郎」もいる。
その「大方」という部分規定が、この句のひとつの〈気分〉になっているのではないかとおもいます。
「夏の海」や「野郎」っていう言辞はひとつの開放感です。「夏」も「海」も「野郎」も記号としては〈大きい〉ですから〈開放感〉があります。「ばかやろう!」って叫ぶときってアバウトな罵詈雑言ですよね。「お前は3点しかこのテストで取れてなかったんだぞ!」とかいわれるとぐさっとくるわけです。つまびらかなので。それよりも「ばかやろう!」っていわれたほうが、らくなわけです。〈おおまかな記号〉だから。
ところが「大方アナルは処女」っていうのは厳密な記号だと思います。「大方」はさておくとしても「アナルは処女」かどうかは、これはゼロワンのある意味、デジタルな思考です。中間はないからです。しかも「大方」というのも量を規定しようとする視線ですから、〈厳密〉を志向しているとおもうんですね。「大方」は意味は〈だいたい〉だけれども、しかし語る行為としては〈アバウト〉ではない。〈大方=だいたい〉は〈だいたい(アバウト)〉ではたぶんないわけです。〈大方=だいたい〉という視線は〈規定〉しようとする行為だから。
だからこの句は、開放感としかしそれを規定する気分の対立としての〈クール〉がある句なんではないかとおもうんです。
「夏の海」から「アナル」としての「処女」に収束=終息していく点も、広大な場所から、点(ドット)へと凝縮していくベクトルです。
そういう視線が語り口とともにしぼられていく様相がひとつのおもしろさとなっている句なのではないかとおもいます。
かんがえてみると、ボーイズラヴとは、そのひとつの考え方として、〈視線の方向性と語り口の採択〉にあるのかもしれません。どう、なんでしょう。
Tシャツ内へ誰の手だ俺男なのに 関悦史
ボーイズラブ小説の奔流が私たちに迫るのは、美少年≒少女という解釈の上に成り立つどこか共感的な読書ではなく、完全に自分と切り離した少年や青年を想像のままに動かし、見る対象として愛玩しようとする欲望充足型の読書である。
「現実ではありえない」と、ロマンチックラブイデオロギーの虚偽を見抜いた上で、男どうしの性愛が無条件に成立する別世界を作り出し、それを操作することで生じる夢や妄想をむさぼろうとする大きなエネルギーが、ここにはある。
ボーイズラブというファンタジーを現出させるにあたって、作者であり読者でもある女性、少女たちは、〈母〉や、異性愛における〈女〉という女性役割の一部でなく、女性そのものから離れた。
女性であるという現実を切り捨て、母のいる家庭や異性愛の成就というなじみやすい目標からも離れた。
藤本恵「少女小説の水脈-〈母物メロドラマ〉という選択」『日本女性文学大事典』
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