どこにでも降っていかないでね、と言われる。「雨」と答える。/////////
- 2015/06/04
- 23:50
安福望さんに、
星ひろう。なんでもひろわないでねときみにいわれる。「はい」とこたえる。 柳本々々
という短歌を絵にしていただきました。
安福さん、ありがとうございました!
こちらのツイートです!
今回描いていただいた絵、きれいなこんぺいとうのカタチがひとつひとつ、埋め尽くすように描かれていましたが、わたしが思う安福さんの絵のひとつの特徴に、〈省略の不在〉というのがあるのではないかとおもうんです。
こんなにもあるカタチのなかで、このカタチのどれひとつとっても〈省略された形〉で描かれてはいないということです。ひとつひとつきっちりと描かれています。
つまり、これらカタチは〈多〉として背景や世界観を構成しているのですが、いっぽうで、どれかひとつを任意で抜き出したとしても〈一〉として世界観を維持することができるということです。〈一〉としても崩れない。いわば、どのひとつをとってもなんでも〈ひろえてしまえる〉カタチなのです。
こないだ安福さんの絵の〈雨〉についてかんがえてたんです。これは岡野大嗣さんの短歌の絵なのですが、雨の箇所だけ部分引用させていただくならば、
安福さんの絵の雨は、〈点線〉なんですね。しかも、〈点線〉でありつつ、それぞれにカラーをもっている。色で微分され、点として差異化されている。
それは、線としての雨ではないんです。ひとつひとつの独立した●としての雨なんです。
たとえば、線の雨で思い出す有名な絵といえば、歌川広重の『大はしあたけの夕立』があります。
この絵の雨は斜線であり、世界を分断し、絵のなかの人物たちにこのシーンから立ち退きを求める〈雨〉になっています。退去勧告としての雨です。
シュルツ『ピーナッツ(スヌーピー)』の雨もそんなところがあります。
人物を徹底的に抑圧しようとする雨です。線、です。
安福さんの雨は〈線〉じゃないんですよね。ひとつぶひとつぶのドットが、〈多〉と同時に〈一〉としてもはしゃいでる雨だとおもうんですね。
シーンを分断するのではなく、人物に退去勧告をだすわけでもない。
じゃあなんなのかといえばそれは〈雨いがいの生を選択しようとしている雨〉なんじゃないかとおもうんですよ。
雨、ではあるんです。ただ機能としての概括されるような雨ではない。ある場合には、それは●であり、ドットであり、点であり、躍動し、静止する丸なんです。
そのとき、その雨は雨いがいの生を雨として生きようとしている。
安福さんの人物や動物の瞳は●で描かれることがありますが、もしかしたら、この雨のひとつぶの●は瞳になりそびれた、あるいはこれから未来に瞳としての●になることをゆめみる丸であるのかもしれないなともおもったりするのです。丸は丸に共鳴するから。
線でなかったことには、理由がある。
それは、雨じしんが雨であることをしりながら、雨いがいの生も同時に模索しているのだと。
雨じしんが、じしんの存在理由を、選ぼうとしている。世界から勝手に選択されないかたちで。
たったひとりを選ぶ 運動場は雨 倉本朝世
星ひろう。なんでもひろわないでねときみにいわれる。「はい」とこたえる。 柳本々々
という短歌を絵にしていただきました。
安福さん、ありがとうございました!
こちらのツイートです!
今回描いていただいた絵、きれいなこんぺいとうのカタチがひとつひとつ、埋め尽くすように描かれていましたが、わたしが思う安福さんの絵のひとつの特徴に、〈省略の不在〉というのがあるのではないかとおもうんです。
こんなにもあるカタチのなかで、このカタチのどれひとつとっても〈省略された形〉で描かれてはいないということです。ひとつひとつきっちりと描かれています。
つまり、これらカタチは〈多〉として背景や世界観を構成しているのですが、いっぽうで、どれかひとつを任意で抜き出したとしても〈一〉として世界観を維持することができるということです。〈一〉としても崩れない。いわば、どのひとつをとってもなんでも〈ひろえてしまえる〉カタチなのです。
こないだ安福さんの絵の〈雨〉についてかんがえてたんです。これは岡野大嗣さんの短歌の絵なのですが、雨の箇所だけ部分引用させていただくならば、
安福さんの絵の雨は、〈点線〉なんですね。しかも、〈点線〉でありつつ、それぞれにカラーをもっている。色で微分され、点として差異化されている。
それは、線としての雨ではないんです。ひとつひとつの独立した●としての雨なんです。
たとえば、線の雨で思い出す有名な絵といえば、歌川広重の『大はしあたけの夕立』があります。
この絵の雨は斜線であり、世界を分断し、絵のなかの人物たちにこのシーンから立ち退きを求める〈雨〉になっています。退去勧告としての雨です。
シュルツ『ピーナッツ(スヌーピー)』の雨もそんなところがあります。
人物を徹底的に抑圧しようとする雨です。線、です。
安福さんの雨は〈線〉じゃないんですよね。ひとつぶひとつぶのドットが、〈多〉と同時に〈一〉としてもはしゃいでる雨だとおもうんですね。
シーンを分断するのではなく、人物に退去勧告をだすわけでもない。
じゃあなんなのかといえばそれは〈雨いがいの生を選択しようとしている雨〉なんじゃないかとおもうんですよ。
雨、ではあるんです。ただ機能としての概括されるような雨ではない。ある場合には、それは●であり、ドットであり、点であり、躍動し、静止する丸なんです。
そのとき、その雨は雨いがいの生を雨として生きようとしている。
安福さんの人物や動物の瞳は●で描かれることがありますが、もしかしたら、この雨のひとつぶの●は瞳になりそびれた、あるいはこれから未来に瞳としての●になることをゆめみる丸であるのかもしれないなともおもったりするのです。丸は丸に共鳴するから。
線でなかったことには、理由がある。
それは、雨じしんが雨であることをしりながら、雨いがいの生も同時に模索しているのだと。
雨じしんが、じしんの存在理由を、選ぼうとしている。世界から勝手に選択されないかたちで。
たったひとりを選ぶ 運動場は雨 倉本朝世
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