【感想】「きみはきのふ寺山修司」公園の猫に話してみれば寂しき 荻原裕幸
- 2015/06/05
- 11:54
「きみはきのふ寺山修司」公園の猫に話してみれば寂しき 荻原裕幸
【連作から読む荻原裕幸-1987年の遊歩者-】
『短歌研究』1987年9月号における荻原裕幸さんの短歌研究新人賞受賞作「青年靈歌」からの一首です。
先日穂村弘さんの初出連作で読んでみたんですが、今回は荻原裕幸さんの短歌を初出・連作で読んでみるとどうなるんだろうということを考えてみたいとおもいます。
ちなみにこのときの「受賞のことば」で荻原さんが「「青年靈歌」の一連は、近時流行のライト・ヴァースに対する、僕なりの共鳴と反感の所産です」と書かれていたのが印象的でした。
うえに掲げた荻原さんの「猫に話してみ」ている歌なんですが、大滝和子さんにこんな猫に話しかけている歌があります。
猫の目にむかいてそっと聞いてみる「宇宙はなんがつなんにち生まれ?」 大滝和子
こうやって二首置いてみることでわかってくることがいろいろあるとおもうんですが、猫に「」付きでことばを投げかけてり状況は似ています。ただ細かい言葉遣いによってその状況が細かくわかれている。
たとえば、大滝さんの歌が「聞いてみる」に対して、荻原さんの歌は「話してみれば」となっている。
これは、荻原さんの歌の語り手が発話しながらも〈解答〉なんかは求めていないし、もしかすると答えをすでに知っているんじゃないかということも示唆しているんではないかと思います。
〈求めていない〉状態、このことばがぶらぶらする感じ。
じつは、この荻原さんの受賞作の連作は語り手が〈あちこち〉に〈遊歩(ぶらぶら)〉しているのが特徴なんじゃないかとおもうんです。
たとえばこの猫の歌なら、「公園」です。
誘(いざな)へどすぐさま拒む人生のたとへば「ペンキ塗りたて」の椅子 荻原裕幸
この「「ペンキ塗りたて」の椅子」からはそれがたとえ隠喩だとしても、〈外〉でぶらぶらして遊歩しつつ「「ペンキ塗りたて」の椅子」をみている感じがあります。座りたくても「ペンキ塗りたて」なのでやはり〈ぶらぶら遊歩〉しつづけなければならない。
それから、遊歩者にうってつけの歩くためにはかっこうの〈森〉ともいえる、〈群衆〉もでてきます。
群衆と呼ぶうつくしき怪獣の胃の腑のあたりわれは歩みつ 荻原裕幸
じっさい「歩」いていますよね。この語り手は〈歩く〉ことが好きなかんじがします。
この連作の最後の歌は、
われに向かひて光る星あれ冬到る街に天文年鑑を買ふ 荻原裕幸
という歌で終わっているんですが、ちょっと想像をたくましくすると、こんどは〈宇宙を遊歩〉しようとしているんじゃないかとおもえるくらいです。
ともかくこの連作の印象は〈街をあてどもなく遊歩している〉という印象が、ある。
で、また猫にかえってみます。
荻原さんの猫の歌で、語り手が猫にはなしていたのは、「きみはきのふ寺山修司」です。これはある意味、〈遊歩〉から読めば、こんなふうにも解釈することもできるかもしれません。
まず〈わたし〉や〈猫〉が〈寺山修司〉であるかもしれない可能性という〈主体の遊歩〉として。
もうひとつは、〈きょう〉と〈きのふ〉はなんとなく・かつ・決定的に変異してしまうこともありえるんだという〈時間の遊歩〉として。
かんがえてみると、〈話す〉という動詞って遊歩的なんです。
大滝さんの歌でたとえば〈聞く〉なので猫が答える可能性もあるわけです。「なんがつなんにち!」と。
ところが荻原さんの歌では、猫に話しているだけなので、猫もどうしていいかわからない。答えるわけにもいかない。自分に話しかけているだけなのかもしれない。なにも聞かれていない。話している、だけなのです。猫もこまっちゃうわけです。どうしたいのか、と。
〈話す〉というのは、言語上でじつは〈ぶらぶら遊歩する〉ことです。
連作のなかをぶらぶら歩きつづける遊歩者。
遊歩者は、じぶんの〈足〉でぶらぶらしなければなりません。なぜならベンヤミンがいっていたように、じぶんであちこちぶらぶら歩き、だれもが発見しなかった〈星座〉を街中に描いてしまうのが遊歩者だからです。乗り物の速度では、はやすぎるし、規則的に過ぎるのです。
だから、遊歩者は、連作のなかで「車」や「電車」といった乗り物から〈疎外〉されてしまうのです。こんなふうに。
ディズニーの服の少女を乗せて去る赤き車の行方を知らず 荻原裕幸
あはき窪みと石榴一顆を残しつつ秋の電車に喀き出されたり 〃
遊歩者は群集の内部に混ざりこんでその身を隠しているが、なお自分の個性や独立心を保持しており、その目覚めの意識によって群集の外部に立っている。
遊歩者はこのように両義的な存在であり、その両義的な位相から。群集を生みだした世界の表情とその奥行きを眺めている。
遊歩者はさまざまな形象を寄せ集め、挿絵のように組み合わせ、その不確定な集まりのなかに都市の現在が抱えもつある種の歴史性を垣間見ているのである。
それらの形象を拾い集める遊歩者のまなざしのなかで、パサージュの空間は全体性の脈絡から自由な、さまざまな挿絵的経験の集まりとなる。
ベンヤミンは「挿絵的な視線というカテゴリーこそは遊歩者の基本である」と述べている
内田隆三『探偵小説の社会学』
【連作から読む荻原裕幸-1987年の遊歩者-】
『短歌研究』1987年9月号における荻原裕幸さんの短歌研究新人賞受賞作「青年靈歌」からの一首です。
先日穂村弘さんの初出連作で読んでみたんですが、今回は荻原裕幸さんの短歌を初出・連作で読んでみるとどうなるんだろうということを考えてみたいとおもいます。
ちなみにこのときの「受賞のことば」で荻原さんが「「青年靈歌」の一連は、近時流行のライト・ヴァースに対する、僕なりの共鳴と反感の所産です」と書かれていたのが印象的でした。
うえに掲げた荻原さんの「猫に話してみ」ている歌なんですが、大滝和子さんにこんな猫に話しかけている歌があります。
猫の目にむかいてそっと聞いてみる「宇宙はなんがつなんにち生まれ?」 大滝和子
こうやって二首置いてみることでわかってくることがいろいろあるとおもうんですが、猫に「」付きでことばを投げかけてり状況は似ています。ただ細かい言葉遣いによってその状況が細かくわかれている。
たとえば、大滝さんの歌が「聞いてみる」に対して、荻原さんの歌は「話してみれば」となっている。
これは、荻原さんの歌の語り手が発話しながらも〈解答〉なんかは求めていないし、もしかすると答えをすでに知っているんじゃないかということも示唆しているんではないかと思います。
〈求めていない〉状態、このことばがぶらぶらする感じ。
じつは、この荻原さんの受賞作の連作は語り手が〈あちこち〉に〈遊歩(ぶらぶら)〉しているのが特徴なんじゃないかとおもうんです。
たとえばこの猫の歌なら、「公園」です。
誘(いざな)へどすぐさま拒む人生のたとへば「ペンキ塗りたて」の椅子 荻原裕幸
この「「ペンキ塗りたて」の椅子」からはそれがたとえ隠喩だとしても、〈外〉でぶらぶらして遊歩しつつ「「ペンキ塗りたて」の椅子」をみている感じがあります。座りたくても「ペンキ塗りたて」なのでやはり〈ぶらぶら遊歩〉しつづけなければならない。
それから、遊歩者にうってつけの歩くためにはかっこうの〈森〉ともいえる、〈群衆〉もでてきます。
群衆と呼ぶうつくしき怪獣の胃の腑のあたりわれは歩みつ 荻原裕幸
じっさい「歩」いていますよね。この語り手は〈歩く〉ことが好きなかんじがします。
この連作の最後の歌は、
われに向かひて光る星あれ冬到る街に天文年鑑を買ふ 荻原裕幸
という歌で終わっているんですが、ちょっと想像をたくましくすると、こんどは〈宇宙を遊歩〉しようとしているんじゃないかとおもえるくらいです。
ともかくこの連作の印象は〈街をあてどもなく遊歩している〉という印象が、ある。
で、また猫にかえってみます。
荻原さんの猫の歌で、語り手が猫にはなしていたのは、「きみはきのふ寺山修司」です。これはある意味、〈遊歩〉から読めば、こんなふうにも解釈することもできるかもしれません。
まず〈わたし〉や〈猫〉が〈寺山修司〉であるかもしれない可能性という〈主体の遊歩〉として。
もうひとつは、〈きょう〉と〈きのふ〉はなんとなく・かつ・決定的に変異してしまうこともありえるんだという〈時間の遊歩〉として。
かんがえてみると、〈話す〉という動詞って遊歩的なんです。
大滝さんの歌でたとえば〈聞く〉なので猫が答える可能性もあるわけです。「なんがつなんにち!」と。
ところが荻原さんの歌では、猫に話しているだけなので、猫もどうしていいかわからない。答えるわけにもいかない。自分に話しかけているだけなのかもしれない。なにも聞かれていない。話している、だけなのです。猫もこまっちゃうわけです。どうしたいのか、と。
〈話す〉というのは、言語上でじつは〈ぶらぶら遊歩する〉ことです。
連作のなかをぶらぶら歩きつづける遊歩者。
遊歩者は、じぶんの〈足〉でぶらぶらしなければなりません。なぜならベンヤミンがいっていたように、じぶんであちこちぶらぶら歩き、だれもが発見しなかった〈星座〉を街中に描いてしまうのが遊歩者だからです。乗り物の速度では、はやすぎるし、規則的に過ぎるのです。
だから、遊歩者は、連作のなかで「車」や「電車」といった乗り物から〈疎外〉されてしまうのです。こんなふうに。
ディズニーの服の少女を乗せて去る赤き車の行方を知らず 荻原裕幸
あはき窪みと石榴一顆を残しつつ秋の電車に喀き出されたり 〃
遊歩者は群集の内部に混ざりこんでその身を隠しているが、なお自分の個性や独立心を保持しており、その目覚めの意識によって群集の外部に立っている。
遊歩者はこのように両義的な存在であり、その両義的な位相から。群集を生みだした世界の表情とその奥行きを眺めている。
遊歩者はさまざまな形象を寄せ集め、挿絵のように組み合わせ、その不確定な集まりのなかに都市の現在が抱えもつある種の歴史性を垣間見ているのである。
それらの形象を拾い集める遊歩者のまなざしのなかで、パサージュの空間は全体性の脈絡から自由な、さまざまな挿絵的経験の集まりとなる。
ベンヤミンは「挿絵的な視線というカテゴリーこそは遊歩者の基本である」と述べている
内田隆三『探偵小説の社会学』
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