【感想】きのうとは違うかたちで飛んでみる 今井和子
- 2015/06/06
- 20:33
きのうとは違うかたちで飛んでみる 今井和子
M 今井さんの一句です。
Y あの、この句でおもしろいなって思うのが、まず「飛べる」んですよ。もう「飛べ」てしまうんですよ。飛ぶことは前提化されているんですよ。ふつう、空を飛びたいな、とかじゃないですか。でも、もう飛べてしまっている。ただ「きのうとは違うかたちで」飛んでみている。そこに差異をもってきているのが、おもしろいなっておもうんです。なぜなら、わたしたちは飛ぶことはできないけれど、「きのうとは違うかたちで」やってみること、生き直してみることはできるから。
M なるほど、そこにたしかに勇気、感じますよね。わたし、さいきん、荻原裕幸さんや加藤治郎さんや穂村弘さんの初期の頃の短歌や言説を雑誌で読んでいたんです。で、三人に共通していることでひとつ思ったのが、三人とも時代に応じながら時代を受け止めながら時代をめいめいのかたちで取り込み・拒絶し・ことばにしながら、「きのうとは違うかたちで」変わっていってるんですね。ただ変わっていってるといっても、根っこが変わるわけじゃないんです。どこかで一貫する芯の部分ももっている。「おなじふうあいで・ちがうかたちとして」変化していく。それってすごく学ぶところが多いんじゃないかなっておもったんです。
Y ちょっとね、わたしこの今井さんの句から小津夜景さんの句をおもいだしたんですよ。好きな句なんですが、
別のかたちだけど生きてゐますから 小津夜景
あらためていまこの句をみて、以前とは別のかたちをいうとするならば、この句末の「から」が大事なんじゃないかとおもうんです。この「から」って理由・根拠ですよね。「別のかたちだけど生きてゐますから(わたしは元気です)」とかね。これは生の根拠そのものだとおもうんですね。「から」で終わる。「から」で終わっているから、相手に有無をいわせない。なぜなら、これが〈わたし〉の根拠だから。「別のかたち」ではあるけれど、でもむしろ「別のかたち」だからこそ。
M ドゥルーズがよくいうことに生っていうのは差異を噴き上げていくことだっていってますよね。どんどんどんどん差異をつくっていくことだ。うごきまくれ、と。「別のかたち」っていうのは〈差異〉に近いなのかなってちょっとおもいました。じゃあ今回は〈地下放送〉をすることを推奨しているドゥルーズのことばで終わりにしましょう。
私は、哲学史を「おかまを掘る」ようなものというか、結局は同じことですが、無原罪の御宿りのようなものと考えていたのです。私は哲学者に背後から近づいて、子供をこさえてやる。その子供はたしかに哲学者の子供には違いないのですが、それだけでなく、どこか怪物じみている。とまあ、そんなふうに考えてみたわけです。
子供がたしかに当該の哲学者のものだということはとても重要です。私が言わせようとしたことを、その哲学者が余すところなく、本当に述べる必要があるわけですからね。
でも子供に怪物じみたところがあるということも、やはりどうしても必要だったのです。ありとあらゆる偏心運動。横滑り、ぶち毀し、地下放送などを体験する必要があったし、それが私にはとても楽しかったわけですから。
ドゥルーズ『記号と事件』
M 今井さんの一句です。
Y あの、この句でおもしろいなって思うのが、まず「飛べる」んですよ。もう「飛べ」てしまうんですよ。飛ぶことは前提化されているんですよ。ふつう、空を飛びたいな、とかじゃないですか。でも、もう飛べてしまっている。ただ「きのうとは違うかたちで」飛んでみている。そこに差異をもってきているのが、おもしろいなっておもうんです。なぜなら、わたしたちは飛ぶことはできないけれど、「きのうとは違うかたちで」やってみること、生き直してみることはできるから。
M なるほど、そこにたしかに勇気、感じますよね。わたし、さいきん、荻原裕幸さんや加藤治郎さんや穂村弘さんの初期の頃の短歌や言説を雑誌で読んでいたんです。で、三人に共通していることでひとつ思ったのが、三人とも時代に応じながら時代を受け止めながら時代をめいめいのかたちで取り込み・拒絶し・ことばにしながら、「きのうとは違うかたちで」変わっていってるんですね。ただ変わっていってるといっても、根っこが変わるわけじゃないんです。どこかで一貫する芯の部分ももっている。「おなじふうあいで・ちがうかたちとして」変化していく。それってすごく学ぶところが多いんじゃないかなっておもったんです。
Y ちょっとね、わたしこの今井さんの句から小津夜景さんの句をおもいだしたんですよ。好きな句なんですが、
別のかたちだけど生きてゐますから 小津夜景
あらためていまこの句をみて、以前とは別のかたちをいうとするならば、この句末の「から」が大事なんじゃないかとおもうんです。この「から」って理由・根拠ですよね。「別のかたちだけど生きてゐますから(わたしは元気です)」とかね。これは生の根拠そのものだとおもうんですね。「から」で終わる。「から」で終わっているから、相手に有無をいわせない。なぜなら、これが〈わたし〉の根拠だから。「別のかたち」ではあるけれど、でもむしろ「別のかたち」だからこそ。
M ドゥルーズがよくいうことに生っていうのは差異を噴き上げていくことだっていってますよね。どんどんどんどん差異をつくっていくことだ。うごきまくれ、と。「別のかたち」っていうのは〈差異〉に近いなのかなってちょっとおもいました。じゃあ今回は〈地下放送〉をすることを推奨しているドゥルーズのことばで終わりにしましょう。
私は、哲学史を「おかまを掘る」ようなものというか、結局は同じことですが、無原罪の御宿りのようなものと考えていたのです。私は哲学者に背後から近づいて、子供をこさえてやる。その子供はたしかに哲学者の子供には違いないのですが、それだけでなく、どこか怪物じみている。とまあ、そんなふうに考えてみたわけです。
子供がたしかに当該の哲学者のものだということはとても重要です。私が言わせようとしたことを、その哲学者が余すところなく、本当に述べる必要があるわけですからね。
でも子供に怪物じみたところがあるということも、やはりどうしても必要だったのです。ありとあらゆる偏心運動。横滑り、ぶち毀し、地下放送などを体験する必要があったし、それが私にはとても楽しかったわけですから。
ドゥルーズ『記号と事件』
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