【感想】ゴダール黒縁眼鏡クロサワ黒縁眼鏡 榮猿丸
- 2015/06/07
- 08:10
言語は常に「公的」なものとしてそこにあるのであって「私的言語」は単に存在しない。私的な領域がありうるとすればそれは先に述べた「フレーム性」言い換えるなら「翻訳の身振り」そのものに胚胎する不安定な領域こそが作家の「私的領域」なのではないだろうか
斎藤環『ユリイカ臨時増刊多和田葉子』
ゴダール黒縁眼鏡クロサワ黒縁眼鏡 榮猿丸
【黒縁眼鏡・黒縁フレーム・黒縁定型】
猿丸さんの『点滅』からの一句です。
猿丸さんの句であらためて気が付いたんですが、映画監督って黒縁眼鏡をかけているひとが、多々いるんですよね。
この句は、ゴダールと黒澤明が黒縁眼鏡だということで、「黒縁眼鏡」を通してふたりが〈眼鏡つながり〉してしまう句なんですが、『ゴダールのリア王』を観ていたときに、そこには〈ゴダール〉が出てくるんですが、そのときに、あれゴダールってずいぶんごつい黒縁眼鏡をかけているんだな、という印象がありました。
で、その『ゴダールのリア王』にウディ・アレンが最後に出てくるんですが、ウディ・アレンもそういえば黒縁眼鏡なんですよね。
だから、この猿丸さんの句って、「クロサワ黒縁眼鏡」のあとに、まだずらずら黒縁眼鏡の映画監督たちが連なっていく可能性も有しているんじゃないかとおもうんです。
あとですね、『81/2』はある意味、〈黒縁眼鏡〉映画ですが、フェリーニもごつい黒縁眼鏡をかけているんですよ。で、『81/2』に似ているアニメに『風立ちぬ』がありますが、宮崎駿も黒縁眼鏡をかけている。
で、あらためて猿丸さんの句をかんがえてみると、黒縁眼鏡と映画というジャンルが響きあっているような気がするんです。
これがもし小説家であったなら〈黒縁眼鏡〉はあまり意味がないんじゃないかと。
映画というスクリーンの黒縁にふちどられたフレームの問題が、黒縁眼鏡によってふちどられた監督の〈視線〉と響きあっているんじゃないかとおもうんですよ。
ゴダールとクロサワがたとえ映画のコンテンツがぜんぜん違う志向性をもっていたとしても、ただある〈動き〉をフレームのなかにおさめざるをえない点においては映画監督の宿命としてもっている。それは〈どんな〉映画をつくるかという問題じゃなくて、つねに〈どう〉映画を撮らざるをえないか、という問題のような気もする。
で、ここでさらに飛躍してみると、俳句という定型も、ある意味、フレームがとても大事になってくるというか、フレームのなかで切り取らざるをえない宿命をもっている。
だからこれは〈フレーム〉をめぐる〈フレーム〉による俳句なんじゃないかとおもうんです。
しかもこの句は、たまたま、あれあのひともこのひとも黒縁眼鏡じゃないのかという〈偶然性〉が〈全体性〉の基調をかたちづくってしまった例なのではないかとおもうのです。
そうして短歌・俳句・川柳は、ある意味では、〈黒縁眼鏡〉をかけ、共有し、しかし問い直していく表現行為なんじゃないかと。
筑紫磐井さんが、『我が時代』のなかでこんなことを書かれていたのが印象的でした。
偶然がいつか全体を語るはずだ。 筑紫磐井『我が時代』
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