【感想】ロッキーロード舐めずに噛んでいる夜の私の殴るべき人たちよ 北山あさひ
- 2014/05/30
- 10:52
ロッキーロード舐めずに噛んでいる夜の私の殴るべき人たちよ 北山あさひ
【アイスクリーム・ボクサー】
31歳の歌人の方々がサーティーワンアイスクリームと掛け合わせて歌った『31』のなかからの北山あさひさんの一首です。
いぜん、ほかにも北山さんが短歌で〈殴る〉ということばを使ってうたわれていたのを眼にした覚えがあるので、この短歌をみたときに、北山さんにとって〈殴る〉ということをめぐるモチーフがどこかにあるのかなとおもったりもしたんですが、「ロッキーロード」というアイスにすこし注目してみたいとおもいます。
ロッキーロードアイスクリームは、「チョコレートアイスクリームにアーモンドとマシュマロ」を混ぜた「岩だらけの道」という名のアイスです。わたしはサーティーワンがすきでよくいくんですが、実際このアイスがケースにはいってみるのをみると、かなりごつく険しいんです。とくにほかのアイスがポップでカラフルなだけにとてもよくそのごつさが目立ちます。
だから、ここではロッキーロードがアイスだけじゃなくて、そうしたロックなごつい道ともかけあわさって意味生成が行われているんだとおもうんですね。
で、ここで、この短歌が「(ロッキーロード舐めずに噛んでいる夜の私の殴るべき)人たちよ」というふうに、「人」に向かって上の句がすべて限定修飾となって機能している点に注目してみたいとおもいます。人には、二重の限定がなされています。ひとつめの限定は、「ロッキーロード舐めずに噛んでいる夜の」という時間の限定、ふたつめは、「私の殴るべき」という対象の限定です。ひとつめの限定修飾の、「夜」は、アイスをなめるのではなくあえて「噛んでいる」というアイスに対して倒錯した状況の夜です。もちろんそれは「ロッキーロード」というごついアイスによって行われた倒錯かもしれないのだけれど、語り手にとってはそうしたアイスに対する特別な関わり合いが派生したからこそ、この「夜」があえて語るに値する特別な夜になっています。そしてそうしたなめることがかむことに、やわらかさがごつさに反転するようなロッキーロードというアイスクリーム装置のおかげで、語り手がふだん抑圧している「殴」りたいひとたちが浮かび上がってきているのではないかとおもうのです。「べき」というのは〈当然〉の助動詞(そうなるべきだ)ですが、この「べき」という助動詞の使用はかんがえてみると語り手の意識のワンクッションしたあとの当然だという意識だととらえることができるようにおもうんです。つまり、いったん語り手は、殴るべきか・殴らざるべきかの枠組みでかんがえたうえで、「殴るべき」と発話している。
でもその発話は、ロッキーロードというアイスクリームを経由してたどりつけた発話ではなかったのかとおもうのです。
ロッキーロードというごついアイスクリームをくちにしたとき、語り手はアイスによってアイスにたいするみずからの行為を倒錯した。しかしその倒錯としての反転によって、語り手ははじめて抑圧していた意識のリミッターを解除し、「殴るべき人たち」におもいをいたらすことができたのではないかと。
サーティーワンアイスクリームを食べるということは、そういった意味でわたしのふだん抑圧している「べき」をあぶりだす装置になるかもしれないということが、もしかするとこのサーティーワンアイスクリーム短歌のサーティーワンアイスクリーム短歌としてのダイナミズムではないかとおもうのです。
まだ終わらないでごみ袋の輪廻フラッシュ・スター・フラッシュ 会えるよ 北山あさひ
【アイスクリーム・ボクサー】
31歳の歌人の方々がサーティーワンアイスクリームと掛け合わせて歌った『31』のなかからの北山あさひさんの一首です。
いぜん、ほかにも北山さんが短歌で〈殴る〉ということばを使ってうたわれていたのを眼にした覚えがあるので、この短歌をみたときに、北山さんにとって〈殴る〉ということをめぐるモチーフがどこかにあるのかなとおもったりもしたんですが、「ロッキーロード」というアイスにすこし注目してみたいとおもいます。
ロッキーロードアイスクリームは、「チョコレートアイスクリームにアーモンドとマシュマロ」を混ぜた「岩だらけの道」という名のアイスです。わたしはサーティーワンがすきでよくいくんですが、実際このアイスがケースにはいってみるのをみると、かなりごつく険しいんです。とくにほかのアイスがポップでカラフルなだけにとてもよくそのごつさが目立ちます。
だから、ここではロッキーロードがアイスだけじゃなくて、そうしたロックなごつい道ともかけあわさって意味生成が行われているんだとおもうんですね。
で、ここで、この短歌が「(ロッキーロード舐めずに噛んでいる夜の私の殴るべき)人たちよ」というふうに、「人」に向かって上の句がすべて限定修飾となって機能している点に注目してみたいとおもいます。人には、二重の限定がなされています。ひとつめの限定は、「ロッキーロード舐めずに噛んでいる夜の」という時間の限定、ふたつめは、「私の殴るべき」という対象の限定です。ひとつめの限定修飾の、「夜」は、アイスをなめるのではなくあえて「噛んでいる」というアイスに対して倒錯した状況の夜です。もちろんそれは「ロッキーロード」というごついアイスによって行われた倒錯かもしれないのだけれど、語り手にとってはそうしたアイスに対する特別な関わり合いが派生したからこそ、この「夜」があえて語るに値する特別な夜になっています。そしてそうしたなめることがかむことに、やわらかさがごつさに反転するようなロッキーロードというアイスクリーム装置のおかげで、語り手がふだん抑圧している「殴」りたいひとたちが浮かび上がってきているのではないかとおもうのです。「べき」というのは〈当然〉の助動詞(そうなるべきだ)ですが、この「べき」という助動詞の使用はかんがえてみると語り手の意識のワンクッションしたあとの当然だという意識だととらえることができるようにおもうんです。つまり、いったん語り手は、殴るべきか・殴らざるべきかの枠組みでかんがえたうえで、「殴るべき」と発話している。
でもその発話は、ロッキーロードというアイスクリームを経由してたどりつけた発話ではなかったのかとおもうのです。
ロッキーロードというごついアイスクリームをくちにしたとき、語り手はアイスによってアイスにたいするみずからの行為を倒錯した。しかしその倒錯としての反転によって、語り手ははじめて抑圧していた意識のリミッターを解除し、「殴るべき人たち」におもいをいたらすことができたのではないかと。
サーティーワンアイスクリームを食べるということは、そういった意味でわたしのふだん抑圧している「べき」をあぶりだす装置になるかもしれないということが、もしかするとこのサーティーワンアイスクリーム短歌のサーティーワンアイスクリーム短歌としてのダイナミズムではないかとおもうのです。
まだ終わらないでごみ袋の輪廻フラッシュ・スター・フラッシュ 会えるよ 北山あさひ
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