【こわい川柳 第十七話】さくらさくら意識の中で咲くさくら 西郷かの女
- 2015/06/09
- 13:00
さくらさくら意識の中で咲くさくら 西郷かの女
【花の意識/無意識】
西郷さんの『句集 冬の陽炎』からの一句です。
「さくらさくら」というのはいろんな歌に使われるように定型的なフレーズなんですが、とつぜん「意識の中の」に接続されることによって、そうした定型としての「さくら」がズラされてしまう。
その〈ズラし〉がこわいなとおもうんですね。
17音だからということもありますが、川柳においてはとつぜん〈ズラし〉がやってきます。
決まり文句や、定型文というのは心地よいですが、実はその〈ここちよさ〉のあまりに〈ことば〉としての〈意識〉を忘れている場合がある。
でもそのなおざりにしている意識をひっぱりだしてくることによって〈こわさ〉や〈おののき〉とともに〈詩〉が生まれる場合があるんじゃないかとおもうんです。
まさにこの「さくら」はそうしたひっぱりだした「意識の中のさくら」なのではないかとおもいます。
西郷さんの句集の「花」はじつはこんなふうにちょっとこわいんですね。
ほかの花の句をあげてみるとたとえば、
我儘な花をいっぱい飼いながら 西郷かの女
曲者をみんな眠らせ咲く牡丹 〃
「我儘な花」は花自体の奔放で人間のような〈自意識〉を感じさせるし(サン=テグジュペリ『星の王子さま』の高慢で嫉妬深い、しかし王子を大好きだった薔薇を思い出しますね)、「曲者をみんな眠らせ咲く牡丹」
はぎゃくにこんどは「曲者」たちが〈眠る〉という「無意識」のただなかに放り込まれ、その〈無意識〉のなかでひとつだけの〈意識〉として咲いている牡丹をおもわせます。
花の意識と無意識をめぐる〈こわさ〉がここにはある。
じゃあ、花が〈こわれて〉しまったときは、どうするのでしょう。
西郷さんの川柳が出した答えは、意識と無意識のあわいにある身体行為、すなわち《添い寝》です。
厳寒や毀れた花に添い寝して 西郷かの女
ジョアン・スファール『星の王子さま』
【花の意識/無意識】
西郷さんの『句集 冬の陽炎』からの一句です。
「さくらさくら」というのはいろんな歌に使われるように定型的なフレーズなんですが、とつぜん「意識の中の」に接続されることによって、そうした定型としての「さくら」がズラされてしまう。
その〈ズラし〉がこわいなとおもうんですね。
17音だからということもありますが、川柳においてはとつぜん〈ズラし〉がやってきます。
決まり文句や、定型文というのは心地よいですが、実はその〈ここちよさ〉のあまりに〈ことば〉としての〈意識〉を忘れている場合がある。
でもそのなおざりにしている意識をひっぱりだしてくることによって〈こわさ〉や〈おののき〉とともに〈詩〉が生まれる場合があるんじゃないかとおもうんです。
まさにこの「さくら」はそうしたひっぱりだした「意識の中のさくら」なのではないかとおもいます。
西郷さんの句集の「花」はじつはこんなふうにちょっとこわいんですね。
ほかの花の句をあげてみるとたとえば、
我儘な花をいっぱい飼いながら 西郷かの女
曲者をみんな眠らせ咲く牡丹 〃
「我儘な花」は花自体の奔放で人間のような〈自意識〉を感じさせるし(サン=テグジュペリ『星の王子さま』の高慢で嫉妬深い、しかし王子を大好きだった薔薇を思い出しますね)、「曲者をみんな眠らせ咲く牡丹」
はぎゃくにこんどは「曲者」たちが〈眠る〉という「無意識」のただなかに放り込まれ、その〈無意識〉のなかでひとつだけの〈意識〉として咲いている牡丹をおもわせます。
花の意識と無意識をめぐる〈こわさ〉がここにはある。
じゃあ、花が〈こわれて〉しまったときは、どうするのでしょう。
西郷さんの川柳が出した答えは、意識と無意識のあわいにある身体行為、すなわち《添い寝》です。
厳寒や毀れた花に添い寝して 西郷かの女
ジョアン・スファール『星の王子さま』
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