【感想】壁の穴にドアをとり付けしっかりと鍵を中からかけて住んでいる 山崎方代
- 2014/05/31
- 08:07
壁の穴にドアをとり付けしっかりと鍵を中からかけて住んでいる 山崎方代
【寝そべる魔法使い-きょうから使える魔法入門-】
短歌という短詩型において〈そのまま〉をあえてうたうと、なぜか〈ぶきみ〉な分節をもってひろがってくるということがあって、以前からとてもふしぎなだなとおもっているんですが、佐佐木幸綱さんが『詩歌句ノート』のなかでこんなことを述べています。
写生という方法は、何も見るものがなくなったときに、もっとも威力を発揮する方法らしいのである。外部に見るものがなくなったとき、突如、非日常への回路として機能するらしい。
これは動けなくなってしまった正岡子規の流れからの指摘なんですが、この佐佐木さんの写生とは非日常への回路というはとても興味深い指摘だとおもうんです。
日常にあえて接近するということが非日常になってしまうという。
ちなみに写生について小森陽一さんが佐佐木さんとはちがうかたちで・おなじふうなことを、こんなふうにいっています。
写生文の怖いのは、何でもないことが事件になってしまうことなんですよ。 『漱石研究創刊号』
この写生という、日常をうつしとるということが短歌形式においては非日常=事件になってしまうという事態。
たとえばそれは山崎方代さんの短歌だけでなく、斉藤斎藤さんのつぎのような短歌にもみられます。
カレーには味噌汁が付く 味噌汁のわかめのために割り箸を割る
なんでもないそのままの光景なんですが、こんなふうに分節されると、有意味化してきます。
短歌だけでなく、川柳でもおなじようなことが起こっていてそれが徳永政二さんの有名なつぎの句です。
犬小屋の中に入ってゆく鎖
写生とは、日常にある事物の流れを分節し、短歌や川柳などの短詩型に切り取る表現行為なのですが、わたしはこの〈分節〉というのが魔法として効いているのではないかとおもっています。
短歌や川柳というのは、すぐはじまって・すぐおわる文芸様式です。で、じつは、これが魔法なんじゃないかとおもうんです。もしくは錯視としての魔法といってもいいかもしれないともおもうんですが、このすぐはじまりすぐおわるなかでなにかが生起することに慣れている、その慣性を錯視として使うのが〈写生〉としての魔法なんじゃないかとおもうんですね。
読み手はあらかじめショートスパンのなかで意味のスパークを期待している。そこになんらかのドラマが派生し、結晶するのを待っている。だからふいに〈写生〉表現にであったときに、ぶきみな肩すかしをくらう。
しかしだからといってそこにドラマがないわけではなくて、短詩型特有のすぐはじまって・すぐおわることがドラマを形成しているのではないかとおもうのです。つまり、ソフトウェアとしてのドラマではなく、ハードウェアとしてのドラマだとおもうんですね。
語り手の分節の仕方、始点・終点によって読み手はドラマをみているのではないかと。ここでのドラマとは葛藤の意味でつかっていますが、本来的には始点や終点のないところに始点や終点をもちこむことによって日常シーンと分節された日常シーンが葛藤しあうドラマです。
はじめておわることそのものを魔法にすること。これは語り手そのものを魔法使いにすることです。正岡子規の写生とは、歌語の重層性やマジックにたよらずに、語り手を魔術化することだったはずです。和歌という特殊な解読コードがいる表現様式をコード不要な表現様式として解放しつつも、始点・終点というだれもがもつことのできる魔法を〈写生〉として組み込んでいくこと。
それが病床六尺から放った正岡子規の魔法だったのではないでしょうか。
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
和歌が育んできた歌語の重層化をゼロにすることが子規の狙いだった。すなわち、〈松〉から〈待つ〉を引き剥がす運動、それが子規における和歌革新の中心にあるモチーフである。歌語を特殊な解読コードを持った密室から解き放つ。それが写生。
三枝昴之『知っ得 短歌の謎』
単純化の行はれた歌は一読して曲が無さ過ぎるやうにもおもふがよく味ふと却つて複雑な気持ちの出てくるものが多い。
斎藤茂吉『短歌初学門』
【寝そべる魔法使い-きょうから使える魔法入門-】
短歌という短詩型において〈そのまま〉をあえてうたうと、なぜか〈ぶきみ〉な分節をもってひろがってくるということがあって、以前からとてもふしぎなだなとおもっているんですが、佐佐木幸綱さんが『詩歌句ノート』のなかでこんなことを述べています。
写生という方法は、何も見るものがなくなったときに、もっとも威力を発揮する方法らしいのである。外部に見るものがなくなったとき、突如、非日常への回路として機能するらしい。
これは動けなくなってしまった正岡子規の流れからの指摘なんですが、この佐佐木さんの写生とは非日常への回路というはとても興味深い指摘だとおもうんです。
日常にあえて接近するということが非日常になってしまうという。
ちなみに写生について小森陽一さんが佐佐木さんとはちがうかたちで・おなじふうなことを、こんなふうにいっています。
写生文の怖いのは、何でもないことが事件になってしまうことなんですよ。 『漱石研究創刊号』
この写生という、日常をうつしとるということが短歌形式においては非日常=事件になってしまうという事態。
たとえばそれは山崎方代さんの短歌だけでなく、斉藤斎藤さんのつぎのような短歌にもみられます。
カレーには味噌汁が付く 味噌汁のわかめのために割り箸を割る
なんでもないそのままの光景なんですが、こんなふうに分節されると、有意味化してきます。
短歌だけでなく、川柳でもおなじようなことが起こっていてそれが徳永政二さんの有名なつぎの句です。
犬小屋の中に入ってゆく鎖
写生とは、日常にある事物の流れを分節し、短歌や川柳などの短詩型に切り取る表現行為なのですが、わたしはこの〈分節〉というのが魔法として効いているのではないかとおもっています。
短歌や川柳というのは、すぐはじまって・すぐおわる文芸様式です。で、じつは、これが魔法なんじゃないかとおもうんです。もしくは錯視としての魔法といってもいいかもしれないともおもうんですが、このすぐはじまりすぐおわるなかでなにかが生起することに慣れている、その慣性を錯視として使うのが〈写生〉としての魔法なんじゃないかとおもうんですね。
読み手はあらかじめショートスパンのなかで意味のスパークを期待している。そこになんらかのドラマが派生し、結晶するのを待っている。だからふいに〈写生〉表現にであったときに、ぶきみな肩すかしをくらう。
しかしだからといってそこにドラマがないわけではなくて、短詩型特有のすぐはじまって・すぐおわることがドラマを形成しているのではないかとおもうのです。つまり、ソフトウェアとしてのドラマではなく、ハードウェアとしてのドラマだとおもうんですね。
語り手の分節の仕方、始点・終点によって読み手はドラマをみているのではないかと。ここでのドラマとは葛藤の意味でつかっていますが、本来的には始点や終点のないところに始点や終点をもちこむことによって日常シーンと分節された日常シーンが葛藤しあうドラマです。
はじめておわることそのものを魔法にすること。これは語り手そのものを魔法使いにすることです。正岡子規の写生とは、歌語の重層性やマジックにたよらずに、語り手を魔術化することだったはずです。和歌という特殊な解読コードがいる表現様式をコード不要な表現様式として解放しつつも、始点・終点というだれもがもつことのできる魔法を〈写生〉として組み込んでいくこと。
それが病床六尺から放った正岡子規の魔法だったのではないでしょうか。
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
和歌が育んできた歌語の重層化をゼロにすることが子規の狙いだった。すなわち、〈松〉から〈待つ〉を引き剥がす運動、それが子規における和歌革新の中心にあるモチーフである。歌語を特殊な解読コードを持った密室から解き放つ。それが写生。
三枝昴之『知っ得 短歌の謎』
単純化の行はれた歌は一読して曲が無さ過ぎるやうにもおもふがよく味ふと却つて複雑な気持ちの出てくるものが多い。
斎藤茂吉『短歌初学門』
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