【感想】私の部屋にあふれる通行人 佐藤みさ子
- 2015/06/11
- 13:15
私の部屋にあふれる通行人 佐藤みさ子
【マルクス兄弟の過剰さから遠く近づいて】
倉本朝世さんが発行している『あざみ通信』4号の佐藤みさ子さんの連作「からっぽの壺」からの一句です。
わたしこのみさ子さんの句がとても好きで、で、基本的にわたしは部屋や水たまりで冒険や遠泳ができるんじゃないかとかんがえている人間なので、こういうミクロな空間がマクロに破砕されていく風景ってとてもすきなんですね(このみさ子さんの句、ちょっとマルクス兄弟の映画『オペラは踊る』の船室にどんどんひとがあふれていく〈過剰〉なるギャグシーンを思い出しますね)。
で、このみさ子さんの句なんですが、たとえばこんな丸山進さんの句といっしょに読んでみるとおもしろいんじゃないかとおもうんですよ。
ほんとうに来ちゃったのかよどうしよう 丸山進
こないだ丸山さんの身の置き場がなくてぶらさがる句について書いたのですが、丸山さんの川柳もみさ子さんの川柳も〈過剰性〉がひとつテーマになっているんじゃないかとおもうんです。
〈過剰性〉とはつねに〈わたし〉がかんがえていたことをうわまわる〈想定外の風景〉のことです。
通行人がじぶんの部屋にあふれる風景や、あのひとくるかも、いやこないかも、こないでくれとおもっていたひとが、来ちゃう風景。
そしてこの〈過剰性〉は実は川柳=定型がもたらしているのではないかともおもうんです。
川柳定型は世界をぶつぎりにしていくために最初から〈外部〉の〈過剰さ〉と接続されている状態にある。ただそれは17音のなかで〈うまくやれ〉ば、かくしてしまうこともできる。
ところがみさ子さんや丸山さんの川柳はそこは隠さない。隠さないで、むしろその〈過剰性〉、世界の過剰さと接続されている状態を、あばいてしまう。
そうしたダイナミックなおもしろさがふたりの川柳にはあるのではないかとおもうんです。
〈過剰性〉はいつも〈すぐそこ〉からやってくる。それをマルクス兄弟のようにあふれたままにうけとめる勇気。
甘えながらやがて倒れてくる箪笥 佐藤みさ子
【マルクス兄弟の過剰さから遠く近づいて】
倉本朝世さんが発行している『あざみ通信』4号の佐藤みさ子さんの連作「からっぽの壺」からの一句です。
わたしこのみさ子さんの句がとても好きで、で、基本的にわたしは部屋や水たまりで冒険や遠泳ができるんじゃないかとかんがえている人間なので、こういうミクロな空間がマクロに破砕されていく風景ってとてもすきなんですね(このみさ子さんの句、ちょっとマルクス兄弟の映画『オペラは踊る』の船室にどんどんひとがあふれていく〈過剰〉なるギャグシーンを思い出しますね)。
で、このみさ子さんの句なんですが、たとえばこんな丸山進さんの句といっしょに読んでみるとおもしろいんじゃないかとおもうんですよ。
ほんとうに来ちゃったのかよどうしよう 丸山進
こないだ丸山さんの身の置き場がなくてぶらさがる句について書いたのですが、丸山さんの川柳もみさ子さんの川柳も〈過剰性〉がひとつテーマになっているんじゃないかとおもうんです。
〈過剰性〉とはつねに〈わたし〉がかんがえていたことをうわまわる〈想定外の風景〉のことです。
通行人がじぶんの部屋にあふれる風景や、あのひとくるかも、いやこないかも、こないでくれとおもっていたひとが、来ちゃう風景。
そしてこの〈過剰性〉は実は川柳=定型がもたらしているのではないかともおもうんです。
川柳定型は世界をぶつぎりにしていくために最初から〈外部〉の〈過剰さ〉と接続されている状態にある。ただそれは17音のなかで〈うまくやれ〉ば、かくしてしまうこともできる。
ところがみさ子さんや丸山さんの川柳はそこは隠さない。隠さないで、むしろその〈過剰性〉、世界の過剰さと接続されている状態を、あばいてしまう。
そうしたダイナミックなおもしろさがふたりの川柳にはあるのではないかとおもうんです。
〈過剰性〉はいつも〈すぐそこ〉からやってくる。それをマルクス兄弟のようにあふれたままにうけとめる勇気。
甘えながらやがて倒れてくる箪笥 佐藤みさ子
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