【こわい川柳 第二十二話】継ぎはぎの言葉で死者を暖める 木本朱夏
- 2015/06/11
- 23:07
もはや名前もわからなくなったひとびとを、死者の世界にさがしにゆくこと。文学とは、これに尽きるのかもしれない。 パトリック・モディアノ
継ぎはぎの言葉で死者を暖める 木本朱夏
【死者の手をひく】
漱石の『こころ』でひとついえることは、あの小説は死者にあふれているということです。「私」のお父さんは死ぬし、先生も死ぬし、先生の奥さんのお父さんも死んでいるし、Kも自殺する。そして明治天皇も、乃木さんも死んでしまう。
あの小説にまんえんしているのは、〈こころ〉ではなく、〈死〉なんですね。
先生が死んだあとに「私」は〈こころ〉という小説を語り始めている。〈死〉をとおして生み出されていることばなんです。
ただ〈文学〉や〈語ること〉、あるいは〈ことば〉というのは、ときどき、〈死者〉をそのはじめから背負わざるをえないんじゃないかとおもうときが、あるんです。
たとえばです。いまわたしは生きていますが、わたしの生がここまでくるのに多くのひとが、先祖が死んでいってるわけです。わたしがいま使うことばも多くの死者たちにながくつかわれつづけ、いまわたしがそのことばをつかってここに書いています。
とつぜんわたしがここにぽんといるわけでも、ここに投げ出されたことばを使っているわけでもない。
〈文学〉は基本的に〈後から〉語るものです。終わってしまった出来事をあたかも〈いま〉あるように語るのが〈文学〉です。そしてそれを〈後から〉読者が本として、読む。
木本さんの句では「死者」が「継ぎはぎの言葉」で「暖め」られています。
なぜ「継ぎはぎの言葉」なのか。
わたしはこんなふうにおもうんです。「私」に『こころ』の「先生」の「こころ」がいくらことばを費やしてもわからなかったように、「死者」を語る完全なことばなんてないんだと。
でも、だからといって、わたしたちは死者を語ることを避けるわけにもいかないんだと。なぜなら、そもそもいまつかっていることばには無数の死者がすでに棲み着いてるから。
「死者」を語ることは「継ぎはぎの言葉」にならざるをえない。それでも語ろうとすることが、「死者」の〈記憶〉を、かつて「死者」が〈生者〉としていた〈記憶〉として、暖めていくことにつながっていくのではないかとおもうのです。
もちろん、そこには『こころ』のように、不可解さや、あるいは欺瞞もはいるかもしれない。語ることは、騙ることだから。
でも、わたしがいずれ死者になったとき、また「継ぎはぎの言葉」でそれをかんがえてもらえばいいとおもうのです。生者から。
生者の役割はかんたんには謎を解かないで、謎をひきうけ、だきしめつつ、「それでも」と、生き延びてゆくことなのだから。
謎解きの下手な男を道連れに 木本朱夏
継ぎはぎの言葉で死者を暖める 木本朱夏
【死者の手をひく】
漱石の『こころ』でひとついえることは、あの小説は死者にあふれているということです。「私」のお父さんは死ぬし、先生も死ぬし、先生の奥さんのお父さんも死んでいるし、Kも自殺する。そして明治天皇も、乃木さんも死んでしまう。
あの小説にまんえんしているのは、〈こころ〉ではなく、〈死〉なんですね。
先生が死んだあとに「私」は〈こころ〉という小説を語り始めている。〈死〉をとおして生み出されていることばなんです。
ただ〈文学〉や〈語ること〉、あるいは〈ことば〉というのは、ときどき、〈死者〉をそのはじめから背負わざるをえないんじゃないかとおもうときが、あるんです。
たとえばです。いまわたしは生きていますが、わたしの生がここまでくるのに多くのひとが、先祖が死んでいってるわけです。わたしがいま使うことばも多くの死者たちにながくつかわれつづけ、いまわたしがそのことばをつかってここに書いています。
とつぜんわたしがここにぽんといるわけでも、ここに投げ出されたことばを使っているわけでもない。
〈文学〉は基本的に〈後から〉語るものです。終わってしまった出来事をあたかも〈いま〉あるように語るのが〈文学〉です。そしてそれを〈後から〉読者が本として、読む。
木本さんの句では「死者」が「継ぎはぎの言葉」で「暖め」られています。
なぜ「継ぎはぎの言葉」なのか。
わたしはこんなふうにおもうんです。「私」に『こころ』の「先生」の「こころ」がいくらことばを費やしてもわからなかったように、「死者」を語る完全なことばなんてないんだと。
でも、だからといって、わたしたちは死者を語ることを避けるわけにもいかないんだと。なぜなら、そもそもいまつかっていることばには無数の死者がすでに棲み着いてるから。
「死者」を語ることは「継ぎはぎの言葉」にならざるをえない。それでも語ろうとすることが、「死者」の〈記憶〉を、かつて「死者」が〈生者〉としていた〈記憶〉として、暖めていくことにつながっていくのではないかとおもうのです。
もちろん、そこには『こころ』のように、不可解さや、あるいは欺瞞もはいるかもしれない。語ることは、騙ることだから。
でも、わたしがいずれ死者になったとき、また「継ぎはぎの言葉」でそれをかんがえてもらえばいいとおもうのです。生者から。
生者の役割はかんたんには謎を解かないで、謎をひきうけ、だきしめつつ、「それでも」と、生き延びてゆくことなのだから。
謎解きの下手な男を道連れに 木本朱夏
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