【こわい川柳 第二十四話】「ちがうちがう ちがうちがう」とセミの声 石川街子
- 2015/06/12
- 12:30
「ちがうちがう ちがうちがう」とセミの声 石川街子
【だれが・なにがちがったのか】
『So』4号から石川街子さんの一句です。
加藤治郎さんが『早稲田文学』1994年5月号でこんなことをおっしゃられていたんです。
「」の使用は、それだけでそこに他者がいることを暗示する。メッセージの受け手がいることをぼんやりと喚起するのだ。
この街子さんの句、もちろん、セミが「ちがうちがう」と〈ノー〉をけたたましく突きつけてきているのもこわいんですが、もっとこわいのはこのふっとさりげなく付けられている「」(かぎかっこ)なんじゃないかな、ともおもうわけです。
なぜなら、セミはなんだかそのカギカッコでこの〈わたし〉という〈他者〉を見出し、ことばでアクセスしようとしているからです。
ただですね、これは実はひっくりかえすことができるんですよ。
どういうことか。
音というのは、記号表現です。音という非意味の記号に、記号内容としての意味を与えるのはいつも聞き手なんです。たとえばあなたが漱石の『こころ』を読んでいて、ああ先生が死んだ理由「明治の精神」というのはこういやつで、先生のこころはこういうことだよね、とわかったら、それは『こころ』に〈そう〉書いてあったからじゃなくて、あなたが〈そう〉聴いたからなんです。
このセミの句もじつは語り手が「ちがうちがう」と聴いてしまったわけです。ということは、語り手は〈そう〉聴きたかった。ということは、語り手はじぶんじしんに対して直截かつ過剰かつ過激な〈ノー〉をつきつけているわけです。じぶんじしんを〈他者〉として。セミを経由して。
でも大事なのはたとえ〈わたし〉が〈わたし〉からノーをつきつけられたとしても、それでも〈わたし〉は〈わたし〉にとことんつきあっていくことではないでしょうか。〈わたし〉がきちんと朽ちるその日まで。
見ていてね きちんと朽ちていくところ 石川街子
【だれが・なにがちがったのか】
『So』4号から石川街子さんの一句です。
加藤治郎さんが『早稲田文学』1994年5月号でこんなことをおっしゃられていたんです。
「」の使用は、それだけでそこに他者がいることを暗示する。メッセージの受け手がいることをぼんやりと喚起するのだ。
この街子さんの句、もちろん、セミが「ちがうちがう」と〈ノー〉をけたたましく突きつけてきているのもこわいんですが、もっとこわいのはこのふっとさりげなく付けられている「」(かぎかっこ)なんじゃないかな、ともおもうわけです。
なぜなら、セミはなんだかそのカギカッコでこの〈わたし〉という〈他者〉を見出し、ことばでアクセスしようとしているからです。
ただですね、これは実はひっくりかえすことができるんですよ。
どういうことか。
音というのは、記号表現です。音という非意味の記号に、記号内容としての意味を与えるのはいつも聞き手なんです。たとえばあなたが漱石の『こころ』を読んでいて、ああ先生が死んだ理由「明治の精神」というのはこういやつで、先生のこころはこういうことだよね、とわかったら、それは『こころ』に〈そう〉書いてあったからじゃなくて、あなたが〈そう〉聴いたからなんです。
このセミの句もじつは語り手が「ちがうちがう」と聴いてしまったわけです。ということは、語り手は〈そう〉聴きたかった。ということは、語り手はじぶんじしんに対して直截かつ過剰かつ過激な〈ノー〉をつきつけているわけです。じぶんじしんを〈他者〉として。セミを経由して。
でも大事なのはたとえ〈わたし〉が〈わたし〉からノーをつきつけられたとしても、それでも〈わたし〉は〈わたし〉にとことんつきあっていくことではないでしょうか。〈わたし〉がきちんと朽ちるその日まで。
見ていてね きちんと朽ちていくところ 石川街子
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