【感想】まっさきに告げる走ってきたことを 徳永政二
- 2015/06/12
- 12:45
まっさきに告げる走ってきたことを 徳永政二
【イメージはなにも説明しないことを説明する】
徳永政二さん(川柳)と藤田めぐみさん(写真)のフォト句集『くりかえす』からの一句です。
この句集は一句に一葉、写真が添えてあるんですが、さいきん絵と句の関係をかんがえていてもおもったことなんですが、ことばとイメージの関係はそれが〈答え合わせ〉にならないことが大事なんじゃないかなっておもうんです。
たとえば、この「まっさきに告げる走ってきたことを」という句はなにかの看板を写した写真になっています。
この看板のなかの絵の猫がそう告げているともちろん取れなくもないけれど、一方で看板に向けて下方に落としている視線、ひかりと日影のあわい、看板の絵という静態的イメージと、この句のなかには存在していない意味性を〈写真〉として写すことで、この句が〈思いがけなくもありえた可能性〉をひきだしてゆく。
もしかしたら「まっさきに告げる走ってきたことを」と考えはしているのだけれど、挫折してしまった主体の句かもしれないですよね。いざ店の前にきてみたら、ふみとどまってしまった。あるいはそう告げ終わって、告げてみたもののふたりともなんといっていいかわからず勢いだけがありあまって視線を下に落としたのかもしれない。
いろんな〈思いがけない可能性〉がでてくる。
その〈思いがけなさ〉ってことばで考えられる次元と、絵やイメージが考えられる次元は〈ちがう〉ものだから、それが合わさったときに思いがけなくふっとやってくるものだとおもうんですよね。
写真や絵というのは、言語とちがって非常にノイジーなものだとおもうんです。たとえばわたしたちは「あ」とおもったら「あ」と発音できますが、こういう「あ」を描こうかなとおもって「あ」をクレヨンで描いてみると、たぶん〈こういう〉「あ」からずれが生じるはずです。写真も撮ってみると、〈そのように思っていた感覚〉とずれて写しだされる。このずれっていう感覚をことばに添えるのが、絵や写真のひとつの役割なんじゃないかとおもうんです。
絵や写真は答えにはならないんです。むしろ、答えをだすのではなくて、〈問い〉を複数生産してゆくものなんです。
答えではないけれど、しかしそれはずうっとことばを読み解く鍵を無限に生み出す装置のようなものです。終わりのない、噴水のような。
答えではないがふたりは噴水を 徳永政二
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:恋する川柳