【感想】恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死 穂村弘
- 2014/06/01
- 08:13
恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死 穂村弘
【恋人の死を語るということ-おいキズキ、と語り手は思った-】
とてもいろんな読解がなされている短歌なんですが、ひとまず定型にそって句分けしてみるとつぎのようになります。
恋人の/恋人の恋/人の恋/人の恋人/の恋人の死
こうして定型でわけてみてひとつ気づくのは、(の死)をのぞけば、ちょうど反転されるようなかたちで「人の恋」を軸にして対照をなしている点です。
恋人の/恋人の恋 (人の恋) 人の恋人/の恋人
この歌というのはひとつの側面として、えんえんとつづくはずだった「人」と「恋」の反転が、(の死)が付着せざるをえない〈定型〉によって殺されてしまう、終止符をうたれてしまう、破砕されてしまうという点があるようにおもうんです。つまりほんとうにそれは(の死)だったわけです。しかし、定型で終止符をうたれたことは、短歌としての死だった。短歌や定型というのは、基本的なアイデンティティとして繰り返されること、繰り返しうたわれること、反復されることをその基礎にもつとおもうんですが、この歌のばあいは、その定型によって(の死)という〈死〉が刻印されることになった。これだけ定型にきっちりはまりながらも(の死)という〈死〉としての余剰によってつねに非対称を余剰を胚胎しつつ反復しつづけなければならない。
そしてそれが語り手にとっての「恋人の死」なんではないかとおもうんですよね。どれだけ「恋人の死」を繰り返し語っても、形態をこわしにかかってくるような、語り手が組織する語りを殺しにかかってくるような、余剰がつねにうまれてしまうこと。しかしそれはそれでも反復されていくこと。それが語り手にとっての「恋人の死」だったのではないかと。しかしその余剰によってこそ、「恋人」への想いは《きっちり》と表象しきれない〈なにか〉として残っていくんじゃないかと。
恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死 穂村弘
いちど、定型でわけない素としてこの短歌をみてみると、ひとつ率直にわかるのは、「恋人」から「死」までが遠すぎるよね、ってことだとおもうんですよね。なんかいもなんかいも「死」にたどりつくまでに、「恋人の」を繰り返さなければならない。つまり、わたしはこれを語り手のバグじゃないかなとおもうんです。「恋人の死」にであった語り手がバグを起こしているんじゃないかと。
定型にわけた語りが語り手の無意識だとすると、定型にわけない素の短歌は、語り手の顕在化されている意識なんじゃないかとおもうんです。語り手は意識ではバグりながらもなんとか「恋人の死」にたどりつきはしたけれども、定型下の無意識では余剰としての死をかかえこんでしまった。これがその短歌のひとつの側面としてあるのではないかとおもいました。
でもそれっていうのは同時にこの語り手が短歌として、短歌のなかでなんとか四苦八苦し、試行錯誤しながらも、恋人の死を遠ざけようとしつつ・生きようとしているということなんじゃないかとおもうんですよね。
つまり、死を死として抑圧したり、覆い隠したりしてしまうのではなくて、語りの形式において挫折はしてしまうし、複数の意味がこめられてしまうような表象の形式をとってはしまうんだけれども、それでもそういった失敗のなかで恋人の死を生きていくことが大事なんじゃないかという。
そんなふうにかんがえたとき、わたしはこの死生観っていうのは、ちょっと村上春樹の『ノルウェイの森』の死生観にも近いのかなとおもうんです。その箇所を引用してこの文章をおわりにしたいとおもいます。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中にも、ビリヤードの台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸いこみながら生きているのだ。
そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた。つまり《死はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで、我々は死に捉えられることはないのだ》と。それは僕には至極まともで理論的な考え方であるように思えた。生はこちら側にあり、死は向こう側にある。僕はこちら側にいて、向う側にはいない。
しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。
僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら十八歳の春を送っていた。でもそれと同時に深刻になるまいとも努力していた。深刻になることは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ。しかしどう考えてみたところで死は深刻な事実だった。僕はそんな息苦しい背反性の中で、限りのない堂々めぐりをつづけていた。それは今にして思えば確かに奇妙な日々だった。生のまっただ中で、何もかもが死を中心に回転していたのだ。
村上春樹『ノルウェイの森』
【恋人の死を語るということ-おいキズキ、と語り手は思った-】
とてもいろんな読解がなされている短歌なんですが、ひとまず定型にそって句分けしてみるとつぎのようになります。
恋人の/恋人の恋/人の恋/人の恋人/の恋人の死
こうして定型でわけてみてひとつ気づくのは、(の死)をのぞけば、ちょうど反転されるようなかたちで「人の恋」を軸にして対照をなしている点です。
恋人の/恋人の恋 (人の恋) 人の恋人/の恋人
この歌というのはひとつの側面として、えんえんとつづくはずだった「人」と「恋」の反転が、(の死)が付着せざるをえない〈定型〉によって殺されてしまう、終止符をうたれてしまう、破砕されてしまうという点があるようにおもうんです。つまりほんとうにそれは(の死)だったわけです。しかし、定型で終止符をうたれたことは、短歌としての死だった。短歌や定型というのは、基本的なアイデンティティとして繰り返されること、繰り返しうたわれること、反復されることをその基礎にもつとおもうんですが、この歌のばあいは、その定型によって(の死)という〈死〉が刻印されることになった。これだけ定型にきっちりはまりながらも(の死)という〈死〉としての余剰によってつねに非対称を余剰を胚胎しつつ反復しつづけなければならない。
そしてそれが語り手にとっての「恋人の死」なんではないかとおもうんですよね。どれだけ「恋人の死」を繰り返し語っても、形態をこわしにかかってくるような、語り手が組織する語りを殺しにかかってくるような、余剰がつねにうまれてしまうこと。しかしそれはそれでも反復されていくこと。それが語り手にとっての「恋人の死」だったのではないかと。しかしその余剰によってこそ、「恋人」への想いは《きっちり》と表象しきれない〈なにか〉として残っていくんじゃないかと。
恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死 穂村弘
いちど、定型でわけない素としてこの短歌をみてみると、ひとつ率直にわかるのは、「恋人」から「死」までが遠すぎるよね、ってことだとおもうんですよね。なんかいもなんかいも「死」にたどりつくまでに、「恋人の」を繰り返さなければならない。つまり、わたしはこれを語り手のバグじゃないかなとおもうんです。「恋人の死」にであった語り手がバグを起こしているんじゃないかと。
定型にわけた語りが語り手の無意識だとすると、定型にわけない素の短歌は、語り手の顕在化されている意識なんじゃないかとおもうんです。語り手は意識ではバグりながらもなんとか「恋人の死」にたどりつきはしたけれども、定型下の無意識では余剰としての死をかかえこんでしまった。これがその短歌のひとつの側面としてあるのではないかとおもいました。
でもそれっていうのは同時にこの語り手が短歌として、短歌のなかでなんとか四苦八苦し、試行錯誤しながらも、恋人の死を遠ざけようとしつつ・生きようとしているということなんじゃないかとおもうんですよね。
つまり、死を死として抑圧したり、覆い隠したりしてしまうのではなくて、語りの形式において挫折はしてしまうし、複数の意味がこめられてしまうような表象の形式をとってはしまうんだけれども、それでもそういった失敗のなかで恋人の死を生きていくことが大事なんじゃないかという。
そんなふうにかんがえたとき、わたしはこの死生観っていうのは、ちょっと村上春樹の『ノルウェイの森』の死生観にも近いのかなとおもうんです。その箇所を引用してこの文章をおわりにしたいとおもいます。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつの空気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中にも、ビリヤードの台の上に並んだ赤と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみたいに肺の中に吸いこみながら生きているのだ。
そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた。つまり《死はいつか確実に我々をその手に捉える。しかし逆に言えば死が我々を捉えるその日まで、我々は死に捉えられることはないのだ》と。それは僕には至極まともで理論的な考え方であるように思えた。生はこちら側にあり、死は向こう側にある。僕はこちら側にいて、向う側にはいない。
しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることのできるものではないのだ。あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたからだ。
僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら十八歳の春を送っていた。でもそれと同時に深刻になるまいとも努力していた。深刻になることは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ。しかしどう考えてみたところで死は深刻な事実だった。僕はそんな息苦しい背反性の中で、限りのない堂々めぐりをつづけていた。それは今にして思えば確かに奇妙な日々だった。生のまっただ中で、何もかもが死を中心に回転していたのだ。
村上春樹『ノルウェイの森』
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