【短歌】桃太郎…(「第72回 短歌ください(お題:ぬるぬる)」『ダ・ヴィンチ』2014年4月号掲載 穂村弘選)
- 2014/04/01
- 20:45
桃太郎「(二匹目にきた…猿じゃない…ぬるぬるしてる…未知のいきもの…)」 柳本々々
(「第72回 短歌ください(お題:ぬるぬる)」『ダ・ヴィンチ』2014年4月号掲載 穂村弘選)
【自(分で)解(いてみる)-ぬるぬる化する帝国-】
投稿時にわたしがつけくわえたコメントが「くるはずの猿がこなかった。よくわからない猿とはちがういきものが二匹目として家来についた予定調和崩壊のうたです」というものだった。
掲載時、選者の穂村弘さんから「どうして昔話なんだろう。光り輝く竹の中からぬるぬるが出現とか。竜宮城で美しいぬるぬるが歓待とか、いろいろなバリエーションがありそうです」というコメントをいただいた。
穂村さんのコメントを自分でも考え直してみて思ったことなのだが、昔話とは誰もがアクセスしてアレンジできるひとつのハードウェアのようなものなのではないだろうか。だから、どんなバージョンのソフトウェアをそこに盛り込んでもいいものとしてあるのではないか(たとえば戦時中、桃太郎は帝国主義を肯定する話として様変わりした。鬼たちの国を〈植民地〉とし〈領土化〉していく桃太郎。詳しくは、滑川道夫『桃太郎像の変容』)。
【さると、ぬるぬる-よこしまなぬるぬる-】
表象としての猿が表現史においていままでどういった役目を負わせられてきたかわからないけれど、なぜだろう、犬やキジにくらべて猿には〈内面〉があるようにわたしには感じられる。つまりひらたくいえば、「裏の顔」があるのではないかと。「裏の顔」があるかもしれないという危惧は、どこまでいっても「未知」であり、ことばで把持できない「ぬるぬる加減」の主体性があるということではないだろうか。
ちなみに宮下規久朗さんの『モチーフで読む美術史』によれば、猿は「西洋では、人間に近いが人間より知能が劣った存在として見下され、異端や淫欲など広く邪悪全般の象徴となってきた」という。
(ダフィット・テニールス(子)「厨房の猿」1645年頃、サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館)
【漫☆画太郎と猿-ぜんぶ、さる。-】
ちなみにわたしにとって〈猿〉といえば、漫☆画太郎さんのマンガのイメージがある。
漫☆画太郎マンガのキャラクターたちの特徴は、とつぜん〈暴徒〉化することだ。それまで紳士的なまでに慇懃無礼に徹していたキャラクターがその正反対の〈暴虐〉な顔をさらけだす。「うきょーーー」や「うきゃーーー」という漫☆画太郎に特権的なセリフのように、それらはどこか〈猿〉が擬人化されたかたちでえがかれる。
あえていえば、漫☆画太郎は、全猿擬人化の手法でマンガをえがいているひとなのではないか。そして、キャラクターを〈内面〉だけ〈猿〉化させることにより、ひとに胚胎している〈暴力〉性とことばに回収されない〈欲動〉のありかたをえがきつづけているひとなのではないか。
だから乱暴にこうしめくくってみようとおもう。
猿とぬるぬるはいつも親和性がある。それは猿に正対したときにあらわれる、言語化できない、どこまでも横滑りしてしまう恐怖=驚怖の表象としてのぬるぬるなのだと。
(漫☆画太郎『地獄甲子園』第1巻p198・集英社)
(「第72回 短歌ください(お題:ぬるぬる)」『ダ・ヴィンチ』2014年4月号掲載 穂村弘選)
【自(分で)解(いてみる)-ぬるぬる化する帝国-】
投稿時にわたしがつけくわえたコメントが「くるはずの猿がこなかった。よくわからない猿とはちがういきものが二匹目として家来についた予定調和崩壊のうたです」というものだった。
掲載時、選者の穂村弘さんから「どうして昔話なんだろう。光り輝く竹の中からぬるぬるが出現とか。竜宮城で美しいぬるぬるが歓待とか、いろいろなバリエーションがありそうです」というコメントをいただいた。
穂村さんのコメントを自分でも考え直してみて思ったことなのだが、昔話とは誰もがアクセスしてアレンジできるひとつのハードウェアのようなものなのではないだろうか。だから、どんなバージョンのソフトウェアをそこに盛り込んでもいいものとしてあるのではないか(たとえば戦時中、桃太郎は帝国主義を肯定する話として様変わりした。鬼たちの国を〈植民地〉とし〈領土化〉していく桃太郎。詳しくは、滑川道夫『桃太郎像の変容』)。
【さると、ぬるぬる-よこしまなぬるぬる-】
表象としての猿が表現史においていままでどういった役目を負わせられてきたかわからないけれど、なぜだろう、犬やキジにくらべて猿には〈内面〉があるようにわたしには感じられる。つまりひらたくいえば、「裏の顔」があるのではないかと。「裏の顔」があるかもしれないという危惧は、どこまでいっても「未知」であり、ことばで把持できない「ぬるぬる加減」の主体性があるということではないだろうか。
ちなみに宮下規久朗さんの『モチーフで読む美術史』によれば、猿は「西洋では、人間に近いが人間より知能が劣った存在として見下され、異端や淫欲など広く邪悪全般の象徴となってきた」という。
(ダフィット・テニールス(子)「厨房の猿」1645年頃、サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館)
【漫☆画太郎と猿-ぜんぶ、さる。-】
ちなみにわたしにとって〈猿〉といえば、漫☆画太郎さんのマンガのイメージがある。
漫☆画太郎マンガのキャラクターたちの特徴は、とつぜん〈暴徒〉化することだ。それまで紳士的なまでに慇懃無礼に徹していたキャラクターがその正反対の〈暴虐〉な顔をさらけだす。「うきょーーー」や「うきゃーーー」という漫☆画太郎に特権的なセリフのように、それらはどこか〈猿〉が擬人化されたかたちでえがかれる。
あえていえば、漫☆画太郎は、全猿擬人化の手法でマンガをえがいているひとなのではないか。そして、キャラクターを〈内面〉だけ〈猿〉化させることにより、ひとに胚胎している〈暴力〉性とことばに回収されない〈欲動〉のありかたをえがきつづけているひとなのではないか。
だから乱暴にこうしめくくってみようとおもう。
猿とぬるぬるはいつも親和性がある。それは猿に正対したときにあらわれる、言語化できない、どこまでも横滑りしてしまう恐怖=驚怖の表象としてのぬるぬるなのだと。
(漫☆画太郎『地獄甲子園』第1巻p198・集英社)
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