【短歌】バイソンが…(毎日新聞・毎日歌壇2014年6月2日 加藤治郎 選)
- 2014/06/02
- 08:15
バイソンが交尾をしてる動物園デートは起承転(←いま・ここ) 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2014年6月2日 加藤治郎 選)
【断裂しつつはあるが流れつつわたし】
うえの短歌の場合、バイソンの交尾がシーンの主体になってしまい、そのことによって語り手の意識に「起承転」というシステムの流れの意識がうまれているとおもうんですが、システムのなかで流れるように生きざるをえないような瞬間があるのではないかと思っていて、たとえばそのときこの・わたしが主体になっているのではなく、むしろシステムが主体になっているのではないかとおもうんです。
このシステムとしての主体のもとに〈わたし〉をみつめるというのは実は短歌と親和性が強いものではないかと思っていて、それは短歌というのがすでに57577という定型としてのシステムのなかにおける〈わたし〉を選択し、表象せざるをえないということと関係しているように思うんです。近代短歌はそうしたシステムとしてのわたしをいかに捨象して、純粋なわたし=わたしという等式を成立させるかということに短歌としての表現が賭けられているようにおもうんですが、たとえばそのような近代短歌ではないかたちでシステムとしてのわたしからむしろ出発してしまおうというのが斉藤斎藤さんだったようにおもいます。この場合、システムとしてのわたしとして諦念するというよりは、システムとしてのわたしから出発することによってもういちど〈わたし〉をその地点からとらえなおしてみようというシステムとしての積極的わたしに近いようにおもうんです。
たとえば、斉藤斎藤さんにつぎのうたがあります。
エ リ ザベス石 庭 →→→→ Pは案の定朝が来たって光りつづけた
とても難しいうただと思うんですがそれはたぶん「エリザベス石庭」の意味がこの短歌内から少しでもつかみとることができないことによっているんだとおもうんです。この短歌の様式にしたがうならおそらくは「エリザベス石庭」の意味を把持できないということがひとつのポイントにもなるようにおもうんです。
しかしいちおう「エリザベス石庭」というラブホテルが存在しているので、仮に「エリザベス石庭」をラブホテルと仮定してみます。ラブホテルの名前特有の、強度をもった記号と記号をかけあわせる語法(たとえば「野猿」や「エデン・パラダイス」「ふたり共和国」みたいな)、「エリザベス石庭」というのはそういう独特の語法のありかたがたとえこの「エリザベス石庭」がラブホテルでなかったとしても印象的なことばとしてあらわれてくることになります。
「→→→→」も読みとりが難しいんですが、この矢印はPをパーキングと読むことによって、進む方向を指示されている、そのことによってシステマティックななかでの流される主体を描いている、ともとれるし、また、Pをペニスととることによって、射精の意としてとらえるようなこともできるようにおもいます。大事なことは、ひとつの意味に語り手が固定しようとしているよりも、固定できないように→やPを配置しているということなんじゃないかとおもうんです。
たとえば「エリザベス石庭」にしてもふつうは「エリザベス石庭」と出されても読みとり不可能です。むしろそうした読みとり・読みだし不可能な流れを語り手もまた感じていたということがいえるようにおもうんですね。
だからこの短歌のポイントは、この意味はなんだろう、この短歌はどういうふうに意味がとれるんだろうという解釈がポイントになるのではなくて、むしろ解釈がかなわないこと、十全として枠組みや意味を提供できない語り手の断裂した意識に沿うことが大事なんじゃないかっておもうのです。
語り手の意識は断裂していて有意味文を形成するシンタックスもなかなかうまく機能しない。ラブホテルであったとしても、ラブホテルでなかったとしても、そのような無意味が有意味となるような意識と場所のなかにいる。しかし語り手に対してある流れとしてのシステムは確実に働いていて、→→→→としてのベクトルを出している。そうしたシステムのなかにいる語り手の流れを短歌として形式化しているうたのようにおもえます。
こんなふうにシステムのなかにおけるわたしをどうとらえていくのかというのが短歌のなかの〈わたし〉におけるひとつの側面としてあらわれてきているようにおもうのです。
取り組む姿勢協同組合でしたですかすみません椅子を間違いました 斉藤斎藤
(毎日新聞・毎日歌壇2014年6月2日 加藤治郎 選)
【断裂しつつはあるが流れつつわたし】
うえの短歌の場合、バイソンの交尾がシーンの主体になってしまい、そのことによって語り手の意識に「起承転」というシステムの流れの意識がうまれているとおもうんですが、システムのなかで流れるように生きざるをえないような瞬間があるのではないかと思っていて、たとえばそのときこの・わたしが主体になっているのではなく、むしろシステムが主体になっているのではないかとおもうんです。
このシステムとしての主体のもとに〈わたし〉をみつめるというのは実は短歌と親和性が強いものではないかと思っていて、それは短歌というのがすでに57577という定型としてのシステムのなかにおける〈わたし〉を選択し、表象せざるをえないということと関係しているように思うんです。近代短歌はそうしたシステムとしてのわたしをいかに捨象して、純粋なわたし=わたしという等式を成立させるかということに短歌としての表現が賭けられているようにおもうんですが、たとえばそのような近代短歌ではないかたちでシステムとしてのわたしからむしろ出発してしまおうというのが斉藤斎藤さんだったようにおもいます。この場合、システムとしてのわたしとして諦念するというよりは、システムとしてのわたしから出発することによってもういちど〈わたし〉をその地点からとらえなおしてみようというシステムとしての積極的わたしに近いようにおもうんです。
たとえば、斉藤斎藤さんにつぎのうたがあります。
エ リ ザベス石 庭 →→→→ Pは案の定朝が来たって光りつづけた
とても難しいうただと思うんですがそれはたぶん「エリザベス石庭」の意味がこの短歌内から少しでもつかみとることができないことによっているんだとおもうんです。この短歌の様式にしたがうならおそらくは「エリザベス石庭」の意味を把持できないということがひとつのポイントにもなるようにおもうんです。
しかしいちおう「エリザベス石庭」というラブホテルが存在しているので、仮に「エリザベス石庭」をラブホテルと仮定してみます。ラブホテルの名前特有の、強度をもった記号と記号をかけあわせる語法(たとえば「野猿」や「エデン・パラダイス」「ふたり共和国」みたいな)、「エリザベス石庭」というのはそういう独特の語法のありかたがたとえこの「エリザベス石庭」がラブホテルでなかったとしても印象的なことばとしてあらわれてくることになります。
「→→→→」も読みとりが難しいんですが、この矢印はPをパーキングと読むことによって、進む方向を指示されている、そのことによってシステマティックななかでの流される主体を描いている、ともとれるし、また、Pをペニスととることによって、射精の意としてとらえるようなこともできるようにおもいます。大事なことは、ひとつの意味に語り手が固定しようとしているよりも、固定できないように→やPを配置しているということなんじゃないかとおもうんです。
たとえば「エリザベス石庭」にしてもふつうは「エリザベス石庭」と出されても読みとり不可能です。むしろそうした読みとり・読みだし不可能な流れを語り手もまた感じていたということがいえるようにおもうんですね。
だからこの短歌のポイントは、この意味はなんだろう、この短歌はどういうふうに意味がとれるんだろうという解釈がポイントになるのではなくて、むしろ解釈がかなわないこと、十全として枠組みや意味を提供できない語り手の断裂した意識に沿うことが大事なんじゃないかっておもうのです。
語り手の意識は断裂していて有意味文を形成するシンタックスもなかなかうまく機能しない。ラブホテルであったとしても、ラブホテルでなかったとしても、そのような無意味が有意味となるような意識と場所のなかにいる。しかし語り手に対してある流れとしてのシステムは確実に働いていて、→→→→としてのベクトルを出している。そうしたシステムのなかにいる語り手の流れを短歌として形式化しているうたのようにおもえます。
こんなふうにシステムのなかにおけるわたしをどうとらえていくのかというのが短歌のなかの〈わたし〉におけるひとつの側面としてあらわれてきているようにおもうのです。
取り組む姿勢協同組合でしたですかすみません椅子を間違いました 斉藤斎藤
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