【こわい川柳 第三十二話】昨日も今日も無くて笑っている 松永千秋
- 2015/06/16
- 18:30
昨日も今日も無くて笑っている 松永千秋
【定型とは、えいえんの夏休み】
『バックストローク』26号から松永千秋さんの一句です。
この千秋さんの句、いろんな面から解釈できるとおもうんですが、たとえばわたしはこの句には定型がもつ一側面があらわれているようなきがするんです。
この句では「昨日」も「今日」も無いと語られています。だからたぶん「明日」や「おととい」「数ヶ月後」もない。ここには〈時間性〉が、ない。
なにがあるかというと、そうした時間の欠如のなかで「笑っている」〈いま・ここ〉です。この16音という〈いま・ここ〉はある。
〈笑う〉というアクションだけがもっている時間性。でもそれもおそらく、数秒後にはかききえてしまうような時間です。「昨日も今日も無」いので。
この〈脱-時間〉感覚といえば、よくサブカルチャーとしてのアニメやライトノベルでは、時間が〈ループ〉しています。たとえば『涼宮ハルヒ』の「エンドレスエイト」においては「終わらない夏休み」をえんえんと繰り返している(ループしている)。おなじ時間をなんどもちがったかたちでくりかえす。時が進行しないのです。
そこにあるのは「昨日も今日も無くて笑っている」だけの繰り返される〈日常〉としての〈非日常〉です。
このループっていうのは『魔法少女まどか☆マギカ』でもみられるんですが、いつも思うのは、〈ループ〉ってなんのためにあるんだろうってことです。で、なんでアニメと親和性が強いんだろうと。
ここからはわたしが勝手に想像してみた考えですが、アニメというのはキャラクターが記号的に類型化されています。性格や個性なども、なかなかオリジナリティを打ち出せない。ある種の今回はこういうキャラクターなんですよというキャラクター的特徴からのデータベース的コミュニケーションがアニメーションにおけるコミュニケーションになっている。だから、キャラクターはときに平板化し、他のアニメーションと差異化できなくなるときがある。
そのときに、キャラクターをなんどもなんどもおなじストーリーのなかにループさせることで、キャラクターの耐久性=耐久値をあげていく。〈この話〉のなかで〈ループ〉させ〈繰り返させる〉ことで、〈この話〉のなかでしか〈耐久性〉をもちえないための〈厚み〉をキャラクターに与えていく。それが〈ループ〉の役割なのではないかとおもうのです。
これはある意味、ゲームもそうです。ゲームも死んだらなんどもなんどもやり直しますが、それはある意味でループです。ただなんどもなんどもクリアできないゲームに挑戦していくことで、わたしたちプレイヤーの耐久値があがっていきます。〈このゲーム〉だけの〈わたしのキャラクター〉の〈厚み〉が〈ループ〉=〈再プレイ〉によって、増していきます。
庵野秀明さんのヱヴァンゲリヲン新劇場版シリーズ制作発表時の所信表明のことばに、こんなことばがあります。
『エヴァ』はくり返しの物語です。主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。わずかでも前に進もうとする、意思の話です。曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。 庵野秀明
ここでもなんども繰り返しを通過することによって(のみ)、シンジというキャラクターの耐久性が増すよう込められているとおもうんです。
で、すごく遠回りしてしまいましたが、松永さんの句にもどります。
じつは、定型もこの〈耐久性〉をずっと試されているなきがするのです。その〈耐久性〉を試されていくなかで、定型の〈耐久値〉が、いままでの話のながれであえていえば、〈キャラクター〉としてつちかわれてきたのではないかと。
定型詩というのはある意味で終わりのないループであり、そしてそのなかで「昨日も今日も無く」定型が〈耐久性〉をずっと試されつつ、〈耐久値〉をつちかっている。そういう定型がループしつづける巨大なひとつの〈物語=神話〉なのではないかと(おおきくいってみると)おもったりします。
だから松永さんの句は、あるひとつの面からいえば、〈定型〉をめぐる句なのではないか。そしてもしかして川柳でいちばんじつはこわいのは〈定型〉なのではないか、と。
なぜなら、いつもうしろにいるから。
南無阿弥陀仏 巨大なキャベツ貰いけり 松永千秋
【定型とは、えいえんの夏休み】
『バックストローク』26号から松永千秋さんの一句です。
この千秋さんの句、いろんな面から解釈できるとおもうんですが、たとえばわたしはこの句には定型がもつ一側面があらわれているようなきがするんです。
この句では「昨日」も「今日」も無いと語られています。だからたぶん「明日」や「おととい」「数ヶ月後」もない。ここには〈時間性〉が、ない。
なにがあるかというと、そうした時間の欠如のなかで「笑っている」〈いま・ここ〉です。この16音という〈いま・ここ〉はある。
〈笑う〉というアクションだけがもっている時間性。でもそれもおそらく、数秒後にはかききえてしまうような時間です。「昨日も今日も無」いので。
この〈脱-時間〉感覚といえば、よくサブカルチャーとしてのアニメやライトノベルでは、時間が〈ループ〉しています。たとえば『涼宮ハルヒ』の「エンドレスエイト」においては「終わらない夏休み」をえんえんと繰り返している(ループしている)。おなじ時間をなんどもちがったかたちでくりかえす。時が進行しないのです。
そこにあるのは「昨日も今日も無くて笑っている」だけの繰り返される〈日常〉としての〈非日常〉です。
このループっていうのは『魔法少女まどか☆マギカ』でもみられるんですが、いつも思うのは、〈ループ〉ってなんのためにあるんだろうってことです。で、なんでアニメと親和性が強いんだろうと。
ここからはわたしが勝手に想像してみた考えですが、アニメというのはキャラクターが記号的に類型化されています。性格や個性なども、なかなかオリジナリティを打ち出せない。ある種の今回はこういうキャラクターなんですよというキャラクター的特徴からのデータベース的コミュニケーションがアニメーションにおけるコミュニケーションになっている。だから、キャラクターはときに平板化し、他のアニメーションと差異化できなくなるときがある。
そのときに、キャラクターをなんどもなんどもおなじストーリーのなかにループさせることで、キャラクターの耐久性=耐久値をあげていく。〈この話〉のなかで〈ループ〉させ〈繰り返させる〉ことで、〈この話〉のなかでしか〈耐久性〉をもちえないための〈厚み〉をキャラクターに与えていく。それが〈ループ〉の役割なのではないかとおもうのです。
これはある意味、ゲームもそうです。ゲームも死んだらなんどもなんどもやり直しますが、それはある意味でループです。ただなんどもなんどもクリアできないゲームに挑戦していくことで、わたしたちプレイヤーの耐久値があがっていきます。〈このゲーム〉だけの〈わたしのキャラクター〉の〈厚み〉が〈ループ〉=〈再プレイ〉によって、増していきます。
庵野秀明さんのヱヴァンゲリヲン新劇場版シリーズ制作発表時の所信表明のことばに、こんなことばがあります。
『エヴァ』はくり返しの物語です。主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。わずかでも前に進もうとする、意思の話です。曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。 庵野秀明
ここでもなんども繰り返しを通過することによって(のみ)、シンジというキャラクターの耐久性が増すよう込められているとおもうんです。
で、すごく遠回りしてしまいましたが、松永さんの句にもどります。
じつは、定型もこの〈耐久性〉をずっと試されているなきがするのです。その〈耐久性〉を試されていくなかで、定型の〈耐久値〉が、いままでの話のながれであえていえば、〈キャラクター〉としてつちかわれてきたのではないかと。
定型詩というのはある意味で終わりのないループであり、そしてそのなかで「昨日も今日も無く」定型が〈耐久性〉をずっと試されつつ、〈耐久値〉をつちかっている。そういう定型がループしつづける巨大なひとつの〈物語=神話〉なのではないかと(おおきくいってみると)おもったりします。
だから松永さんの句は、あるひとつの面からいえば、〈定型〉をめぐる句なのではないか。そしてもしかして川柳でいちばんじつはこわいのは〈定型〉なのではないか、と。
なぜなら、いつもうしろにいるから。
南無阿弥陀仏 巨大なキャベツ貰いけり 松永千秋
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