【こわい川柳 第三十六話】新聞の一か所濡れて祖父の霊 石田柊馬
- 2015/06/19
- 06:36
新聞の一か所濡れて祖父の霊 石田柊馬
【「私は覚えている。オートミール、燻製の鮭、ジャム入りクレープ、……」】
寺山修司が〈短歌化〉もしていますが、木枯さんの俳句にこんな句があります。
外套のままの仮寝に父の霊 八田木枯
ちなみに、〈死〉をさまざまなかたちで描く映画監督ソクーロフの『ストーン』には、チェーホフの亡霊が水浴びをしているという〈リアル〉なかたちで出てきます(ちなみに以前、渋谷のTSUTAYAには、おどろくべきことに、ソクーロフの作品のほとんどのビデオが置いてありました)。
これら霊をめぐっておもうのは、どこかで〈こちら側〉とリンクされ、地続きであるという、〈ハイパーリンク〉としての霊だということです。
新聞がいっかしょ濡れている、外套のままねむっちゃっている。それらはどこかで〈部分的〉にリンクがはられ、そこから霊が介入してくる。
だとすると、霊というのは、〈全体的〉な経験としてあるのではなく、〈部分的〉な経験なんだ、ということがわかってきます。
霊は、部分としてやってくる。
もうすこしつっこんでいうと、〈部分的失調〉としてやってくる。
新聞は濡れるとやぶれるので読めなくなるし、外套のままでは熟睡できないかもしれない(だから実際「仮寝」です)。
そうした新聞テクストがテクストとしてゆらぐとき、睡眠のなかの夢テクストがテクスト化できず「仮寝」としてゆらいでいるときに、意味形成=生成のゆれとして、まさにテクストそのものとして、意味の現象学として、〈亡霊〉はやってくる。
そういえば、テクストのおびただしいリンクとともに、亡霊を〈書く行為〉と関連づけていったのは、デリダでした。
亡霊たち、手紙=文学を書くとき、なぜ人はいつも亡霊たちを呼び出すのか? 人は亡霊が到来するままにしておく、というよりむしろ亡霊を巻き添えにする、また人は亡霊のために書く、亡霊に手を貸す、けれども、なぜそうなのか?
デリダ『絵葉書Ⅰ』
私は『ストーン』に非常にリアルに関係しているのです。
チェーホフが一時間三〇分この世に戻ることを、私は信じているのです。
可能性があると思っています。
実は、私に勇気があり、俳優としての能力があるのなら、このチェーホフ博物館の当直の青年役に自分自身がなりました。
あの青年は私なのだといつも想像していました。
だから私自身も、一分過ぎた、二分過ぎた、チェーホフはもう行ってしまう、どうしたらいいだろう、どうしたらいいだろうと、パニックに陥り、茫然自失しているのです。
ソクーロフ『ソクーロフとの対話』
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