【こわい川柳 第三十七話】ろうそくを何本立てても私 蟹口和枝
- 2015/06/19
- 07:58
ろうそくを何本立てても私 蟹口和枝
【「ピーマン切って中を明るくしてあげ」られなかった】
『川柳・北田辺』57号・2015年・6月から、蟹口和枝さんの一句です。
和枝さんの句でわたしの好きな句に、
きのこから私が生えてくる時間 蟹口和枝
というのがあるんですが、ろうそくと私の句もきのこと私の句も、どちらも、〈この私〉からけっきょくは逃げられない〈こわさ〉があるんじゃないかとおもうんですね。
川柳はある意味においては、〈ことばの快楽〉のようなところがあるので、ポストモダンな感じでことばを並べることによって逃げることもできるんですが、でもその一方で、不連続として連続するじぶん、地続きの〈わたし〉を、どういうふうに定型として受け止めていくか、っていうのも大事なようにおもうんです。
つまり、〈私性〉に〈ことば〉のほうからちかづいていいってみるという、ポストモダンでも、モダニティでもないかたちで。不連続の連続するわたしとして。
たとえば、きのこからぽこぽこわたしが生えてくるのは、ある意味で、わたしはばらばらで、複数なのだけれども、それが「時間」とさいごにとどめおかれることで、〈限定的〉になって、そのきのこから生えたわたしを〈ひきうける時間〉を語り手がもたなきゃいけないんだなあというのを感じさせますね。
たとえば、「もうお別れの時間だよ」っていわれたら、その〈時間〉をひきうけなきゃいけませんよね。ある時間を語るということは、ひきうけるということにもなってくるんです。
また、ろうそくのわたしの句。
「ろうそくを何本立てても」と逆接でつながっていきますが、本来的にはわたしの意識は、ろうそくを何本か立てたら〈わたし〉から逃れることができるんじゃないかという意識があったはずです。
ところが「ろうそくを何本立てても」〈わたし〉から逃れられないとわかってしまった。とくにこの「何本」というのは、「何本」と書いてあるように、〈n本〉なのでどんな数字をあててもそれは関数にも変数にもならない。〈わたし〉からは逃れられない。
だからこの〈わたし〉はこれから生きていくにあたって、「ろうそくを何本か立てたら変われるんじゃないか」とおもった〈わたし〉も引き受けて生きていかなければならない。
そういう〈わたし〉を〈どう〉引き受けていくか。ただたんにことばを並べてわたしを稀薄化するのでも、魂の情念のようにわたしを固めるのでもないかたちで。
だとしたら、それは、ふだんはすかすかなのに、場合によっては、みっちりしてる、ピーマンの肉詰めのような、〈宿り〉として〈わたし〉はあらわれてくるかもしれない。
ピーマン切って中を明るくしてあげた 池田澄子
のが俳句なら、川柳は、
カウンター越しにピーマンの同級生詰め 蟹口和枝
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