【感想】あやまっているがボタンを押している 徳永政二
- 2015/06/19
- 12:11
にはかに座より躍り上がり、面色さながら土の如く、「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫び、その場にたふれぬ。 森鴎外「舞姫」
あやまっているがボタンを押している 徳永政二
【ずるい「こゝろ」】
徳永さんのフォト句集『大阪の泡』からの一句です。
〈勇気〉ってなんなのか、をひとことでいうとわたしはこの句になるんじゃないかとおもうんです。
「あやま」りはする。言語的に主体をとりさげはするんだけれども、身体的に主体はとりさげず、「ボタンを押している」。
もちろんその勇気はよい方向にも動くし、わるい方向にうごくこともある。
この句は、つまり、主体の二層仕立てなんですね。どういうふうに、主体を使い分けるか、使い分けてまで〈つづけたいこと〉〈やりたいこと〉があるのかどうなんだ、という句だとおもうんですよ。
だから、〈こそこそする〉のがすきなひともこの句はすきなのかもしれない。〈こそこそする〉ことが勇気なのか、やぎもとどうなんだ、といわれそうだけれども、もしかしたらそれも〈勇気〉かもしれない。
〈勇気〉っていうのはかならずしもポジティヴなものだともおもわないんですよ。
あともうひとつは、この句は非常にある意味で、近代文学的、漱石的だということです。
漱石の小説ではよく〈姦通〉が主題になっていて、そもそもが近代文学はフロベールの『ボヴァリー夫人』やトルストイの『アンナ・カレーニナ』、ホーソーンの『緋文字』のように〈姦通小説〉から〈近代文学〉は始まるといわれているんですが、漱石的〈姦通〉というのも、ある意味では、あれだけの〈小説〉という言語体系をもちながら、代助(『それから』)や宗助(『門』)が、〈やってしまう〉小説なんです。あとはその〈やってしまった〉ことについてえんえんと言説を構築していく。
たとえば『こころ』の先生もKに対して「あやまっているがボタンを押している」んです。そして青年の「私」にも「あやまっているがボタンを押して」自殺してしまう。
そうすると、近代性ってそうした「あやまっているがボタンを押している」主体だったんじゃないかという気もしてくるんです。
だとしたら、その〈勇気〉ってどうなんだろうと。
かつて〈近代的自我〉の〈目覚め〉として取り上げられてきた森鴎外「舞姫」の太田豊太郎は妊娠させたエリスをベルリンにやり捨てたまま、帰ってきて、その途上で手記を書いている。
やはり、かれも、「あやまっているがボタンを押している」。
じゃあそのとき、やり捨てられたエリスはどんなきもちだったのか。
徳永さんの句を借りれば、こんなきもちだったのではないか。
つり革を握りなんでやねんと言う 徳永政二
あやまっているがボタンを押している 徳永政二
【ずるい「こゝろ」】
徳永さんのフォト句集『大阪の泡』からの一句です。
〈勇気〉ってなんなのか、をひとことでいうとわたしはこの句になるんじゃないかとおもうんです。
「あやま」りはする。言語的に主体をとりさげはするんだけれども、身体的に主体はとりさげず、「ボタンを押している」。
もちろんその勇気はよい方向にも動くし、わるい方向にうごくこともある。
この句は、つまり、主体の二層仕立てなんですね。どういうふうに、主体を使い分けるか、使い分けてまで〈つづけたいこと〉〈やりたいこと〉があるのかどうなんだ、という句だとおもうんですよ。
だから、〈こそこそする〉のがすきなひともこの句はすきなのかもしれない。〈こそこそする〉ことが勇気なのか、やぎもとどうなんだ、といわれそうだけれども、もしかしたらそれも〈勇気〉かもしれない。
〈勇気〉っていうのはかならずしもポジティヴなものだともおもわないんですよ。
あともうひとつは、この句は非常にある意味で、近代文学的、漱石的だということです。
漱石の小説ではよく〈姦通〉が主題になっていて、そもそもが近代文学はフロベールの『ボヴァリー夫人』やトルストイの『アンナ・カレーニナ』、ホーソーンの『緋文字』のように〈姦通小説〉から〈近代文学〉は始まるといわれているんですが、漱石的〈姦通〉というのも、ある意味では、あれだけの〈小説〉という言語体系をもちながら、代助(『それから』)や宗助(『門』)が、〈やってしまう〉小説なんです。あとはその〈やってしまった〉ことについてえんえんと言説を構築していく。
たとえば『こころ』の先生もKに対して「あやまっているがボタンを押している」んです。そして青年の「私」にも「あやまっているがボタンを押して」自殺してしまう。
そうすると、近代性ってそうした「あやまっているがボタンを押している」主体だったんじゃないかという気もしてくるんです。
だとしたら、その〈勇気〉ってどうなんだろうと。
かつて〈近代的自我〉の〈目覚め〉として取り上げられてきた森鴎外「舞姫」の太田豊太郎は妊娠させたエリスをベルリンにやり捨てたまま、帰ってきて、その途上で手記を書いている。
やはり、かれも、「あやまっているがボタンを押している」。
じゃあそのとき、やり捨てられたエリスはどんなきもちだったのか。
徳永さんの句を借りれば、こんなきもちだったのではないか。
つり革を握りなんでやねんと言う 徳永政二
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