【こわい川柳 第四十一話】新しい潮が玄関から入る 八木千代
- 2015/06/22
- 19:22
新しい潮が玄関から入る 八木千代
【めぐりあう時間(うしお)たち】
八木千代さんの句集『椿抄』からの一句です。
ダルドリーの映画『めぐりあう時間たち』のなかで非常に印象的なシーンがあって、ある妊娠中の女のひとがベッドで寝ているところに水がいっきにあふれかえるんです。
この映画はそもそもヴァージニア・ウルフを軸に、時間がどんどん交錯=錯綜していく映画なんですが、たぶんそういう時間の急流と水の流れはかけられて、と同時に、その妊娠中のかのじょの生の不安や自殺への衝動、満たされない感情とも結びついている。
それらがいっきに、彼女の主体的意志とはむかんけいに、部屋に急流があふれかえる。べつのいいかたをすれば、潮(うしお)が、くる。
この映画はヴァージニア・ウルフの入水でさいご幕をとじるので、そういったある意味で、オフィーリア的な、女性を水のなかに抑圧する死の継承とも〈急流〉は結びついている。
米川千嘉子さんのこんな歌もじつはこの映画『めぐりあう時間たち』の構造的不安と期せずして共鳴しているのではないかとおもうんです。
抱きて眠る胎児(こ)の中われが胎児(こ)となりて浮く錯覚に目ざめて怖し 米川千嘉子
この米川さんの歌からもわかりますが、妊娠するということは、羊水を、潮に満ちたひとつの〈部屋〉をじぶんの身体にかかえもつことになる。でもその一方で、米川さんの歌にもあるように、それはまったくのわたしの意思とは無関係な〈別室〉として、わたしがそのなかで「浮く錯覚」を抱く不安定なリアリティとも現存している。
部屋や密室とあふれる水の関係。
八木さんの句は、「新しい潮」なのでもちろんそれは〈新しい時間〉の流れとしての希望かもしれない。
しれないんだけれども、でも「潮」という海水の流れ、水と死と女性がつねにワンセットにされてきた表象の系譜をかんがえてみると、そこには〈不安定〉な感情がとつぜんやってくる〈こわさ〉のようなものもあるのかもしれないともおもうんです。
たとえば、それは漱石の「温泉」のなかでかわされる「鏡の池」の会話としてあふれる水のなかでこんなかたちでもやってくるのです。おどろきとおののきとして。
「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」
「行つて御覧なさい」
「画にかくにいい所ですか」
「身を投げるにいい所です」
「身はまだなかなか投げないつもりです」
「私は近々投げるかも知れません」
余りに女としては思い切った冗談だから、余はふと顔を上げた。女は存外たしかである。
「私が身を投げて浮いている所を──苦しんで浮いてる所じゃないんです──やすやすと往生して浮いているところ──奇麗な画にかいてください」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでせう」
女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑った。茫然たる事多時。
夏目漱石『草枕』
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