【短歌】傘と傘…(日経新聞・日経歌壇2015年6月21日・穂村弘 選)
- 2015/06/22
- 21:36
全身が急所のシャボン玉を追う全身が凶器の君と僕 木下龍也
きのうの日経歌壇の木下さんの一首です。
ちなみにきのうはわたしもこんな歌を載せていただきました。
傘と傘ふれあうときにおおぶりのあじさいぶつかりあうようなきもち 柳本々々
木下さんの短歌を読んでおもったのですが、短歌のひとつの特質としてモノに痛覚をもたらすという〈痛覚の生成〉というのがあるんじゃないかなとおもったのです。
たとえば木下さんの歌なら、〈シャボン玉の痛覚化〉です。シャボン玉に急所を与えることで、痛覚を与え、それが読み手の痛覚にもなっていきます。
わたしの歌でいえば、傘とあじさいを配合することにより、傘の痛覚化が行われる。
きのうは小坂井さんのこんな歌も掲載されていました。
電話機の中でコインが落ちる音おそろしいほどリアルだったよ 小坂井大輔
このコインが落ちる音のリアルもひとつの〈音の痛覚〉として感受されているのではないかとおもうのです。〈わたし〉にとってもリアルだし、コインそのものの〈痛覚〉としてもリアルに感じられる。そしてそのように感じられてしまう〈わたし〉の〈内面の痛覚〉もある。おそらく、リアルは痛覚から、くる。なぜなら、痛覚が語り手と読み手の身体的接続回路になってゆくから(ホラー映画は過剰な身体的接続回路を生成することで、逆にオーディエンスに接続過剰としての〈痛み〉のリアルを与えるわけです)。
なにが〈リアル〉な接続回路になっているのか、でもそのなかでその接続回路を〈逆〉に相対化させユーモアにする手続きを短歌にするならば、
顔色とか舌の色とか骨董とかばかり褒められる年代となる 高橋好美
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