【お知らせ】あととととがき、或いは、「とととと展『食器と食パンとペン』と『サイレンと犀』の一週間」における「ととととライブ~私たちの好きな短歌と音楽~」のクロストーク(岡野大嗣×安福望×柳本々々)
- 2015/06/23
- 06:56
安福望さんにわたしの短歌、
背中って広い草原みたいだね 高熱の俺に妖精が云う 柳本々々
に絵をつけていただきました。ありがとうございました!
猫らの時代
記事タイトルも先日朝井リョウさんが出演されていた日曜日朝フジテレビの『僕らの時代』とかかっています。
安福さんが、「私の名刺は表が草原っぽい絵で裏が猫の絵なのだけれど、ある人が名刺の猫の絵を見て、表の草原の絵が草じゃなく猫の毛だと思ったのがおもしろかった。それからは草原を思い浮かべるときに毛も出てくる」とおっしゃっていますが、「草」と「猫の毛」が結びついていくように、絵の大事な役割として、そういう連想=連接的な換喩としての機能があるとおもうんですよね。
で、ですね。これってじつは《と》の力学じゃないかとおもうのです。
たとえば、絵も短歌も、原理や理屈を無視して、配置として、とつぜん、おもいがけないかたちで、なにかを《と》としてわきに置くことができる。あるもののかたわらに、これ《と》それ、として、さらにそこから、《と》なになに、というかたちで、どんどん添加していくことができる。
《と》は、答えはひとつだという隠喩の機能ではなく、もうひとつの答えをつねにさぐる換喩の機能です。
《と(and)》を思想的かつ過激にあつかったのは、ドゥルーズでした。
《と》は思想的である、と。
なぜなら、《と》は、あらゆるものを、AとBというふうに結びつける可能性をもつとともに、なにかが終わったとおもいきや、さらにAとB(とnとnとnと……)と結びつけていくからです。
そこには無限の連鎖がある。
《と》はあらゆる結合の可能性をもち、さらにまだ存在していない連結の可能性もつねにもっている。
安福さんの「食器と食パンとペン」という結合や、岡野大嗣さんの「サイレンと犀」という接合もそうです。食器と食パンとペン、サイレンと犀が連接されると同時に、おそらくそこにはまだみえない、後続の《と》がねむっている(かつ、あらわれている)。
それが、《と》です。《とととと》なのです。
お知らせもすでになされていますが、安福望さんと岡野大嗣さんの「とととと展『食器と食パンとペン』と『サイレンと犀』の一週間」の「ととととライブ~私たちの好きな短歌と音楽~」のクロストークに出演させていただくことになりました。岡野大嗣さん・安福望さんとお話させていただく予定になっています(そのクロストークの前には、木下龍也さん、長谷川健一さんのライブがあります)。
岡野大嗣歌集『サイレンと犀』の表紙・挿画や「食器と食パンとペン」のブログでおなじみ、安福望さんの画集が7月10日に発売されます。それを記念して、「とととと展~『食器と食パンとペン』と『サイレンと犀』の一週間~」と題し、ギャラリー・古書店・カフェと、横断イラスト展を開催いたします。
そういえばとつぜんきのう、真夜中に思い出したのですが、わたしはかつて『ウェブマガジン アパートメント』のプロフィールで、じぶんの名前の読み方はたぶん「やぎもとととと」なのではないかと記したことがあります(それはもっとさかのぼれば、かつて八上桐子さんのブログにコメントでそのように書かせていただいたことからきています)。
ああそうか、わたしもととととだったのかと、おもいながら、おふとんのなかに、もぐりこみました。はるかなると、を求めて。こうだいなとのなかへとわた
いや寝ちゃだめだ。朝だよ。
背中って広い草原みたいだね 高熱の俺に妖精が云う 柳本々々
に絵をつけていただきました。ありがとうございました!
猫らの時代
記事タイトルも先日朝井リョウさんが出演されていた日曜日朝フジテレビの『僕らの時代』とかかっています。
安福さんが、「私の名刺は表が草原っぽい絵で裏が猫の絵なのだけれど、ある人が名刺の猫の絵を見て、表の草原の絵が草じゃなく猫の毛だと思ったのがおもしろかった。それからは草原を思い浮かべるときに毛も出てくる」とおっしゃっていますが、「草」と「猫の毛」が結びついていくように、絵の大事な役割として、そういう連想=連接的な換喩としての機能があるとおもうんですよね。
で、ですね。これってじつは《と》の力学じゃないかとおもうのです。
たとえば、絵も短歌も、原理や理屈を無視して、配置として、とつぜん、おもいがけないかたちで、なにかを《と》としてわきに置くことができる。あるもののかたわらに、これ《と》それ、として、さらにそこから、《と》なになに、というかたちで、どんどん添加していくことができる。
《と》は、答えはひとつだという隠喩の機能ではなく、もうひとつの答えをつねにさぐる換喩の機能です。
《と(and)》を思想的かつ過激にあつかったのは、ドゥルーズでした。
《と》は思想的である、と。
なぜなら、《と》は、あらゆるものを、AとBというふうに結びつける可能性をもつとともに、なにかが終わったとおもいきや、さらにAとB(とnとnとnと……)と結びつけていくからです。
そこには無限の連鎖がある。
《と》はあらゆる結合の可能性をもち、さらにまだ存在していない連結の可能性もつねにもっている。
安福さんの「食器と食パンとペン」という結合や、岡野大嗣さんの「サイレンと犀」という接合もそうです。食器と食パンとペン、サイレンと犀が連接されると同時に、おそらくそこにはまだみえない、後続の《と》がねむっている(かつ、あらわれている)。
それが、《と》です。《とととと》なのです。
お知らせもすでになされていますが、安福望さんと岡野大嗣さんの「とととと展『食器と食パンとペン』と『サイレンと犀』の一週間」の「ととととライブ~私たちの好きな短歌と音楽~」のクロストークに出演させていただくことになりました。岡野大嗣さん・安福望さんとお話させていただく予定になっています(そのクロストークの前には、木下龍也さん、長谷川健一さんのライブがあります)。
岡野大嗣歌集『サイレンと犀』の表紙・挿画や「食器と食パンとペン」のブログでおなじみ、安福望さんの画集が7月10日に発売されます。それを記念して、「とととと展~『食器と食パンとペン』と『サイレンと犀』の一週間~」と題し、ギャラリー・古書店・カフェと、横断イラスト展を開催いたします。
そういえばとつぜんきのう、真夜中に思い出したのですが、わたしはかつて『ウェブマガジン アパートメント』のプロフィールで、じぶんの名前の読み方はたぶん「やぎもとととと」なのではないかと記したことがあります(それはもっとさかのぼれば、かつて八上桐子さんのブログにコメントでそのように書かせていただいたことからきています)。
ああそうか、わたしもととととだったのかと、おもいながら、おふとんのなかに、もぐりこみました。はるかなると、を求めて。こうだいなとのなかへとわた
いや寝ちゃだめだ。朝だよ。
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