【感想】もうなんもわからへんくて乗っている東へそして北へゆくバス 吉岡太朗
- 2015/06/23
- 13:00
もうなんもわからへんくて乗っている東へそして北へゆくバス 吉岡太朗
【右の帝国主義】
演劇で「上手(かみて)・下手(しもて)」っていうことばがありますよね。
「上手」は、右側。「下手」は、左側です。
で、舞台の右にいるか左にいるかで、そのひとの立場がそれだけで変わってくるのが上手・下手という概念です。
たとえば、落語で落語家のひとは、身分の高いひとに話しかけるときは右を向いて話します。つまり、上手=右のほうが、「上」なわけです。立場が。だからわたしは林家三平が「右」でも「左」でもなく、「前方」を特権化したのは彼のキャラクターを仕上げるうえでとても意味があることだったんじゃないかなともおもうんです。つまり、位階をとっぱらってただひたすらに聴衆=前に向くわけです。
これは、落語だけではなくて、たとえば富野由悠季の『∀ガンダム』というアニメでも、敵のギンガナムはいつも画面の「右」にいます。かれが「左」を位置するときは、かれがラスト、敗北するしゅんかんです。
また思い出してみれば、マリオもそうですよね。マリオは右に向かって進んでいくゲームですから、下手から上手へ、左から右へと進んでいくゲームです。進んでいくことが、上手からの敵=脅威と遭遇し、でも進むことが目的なので、敵をよけ、つぶし、はね、下手=左へ追いやることで、じぶんが上手=右を陣取りつづけていくのがマリオです。すなわり、マリオというのはいかに〈右〉を占有するか、という〈右の帝国主義〉のゲームです。
で、そういうことをかんがえていたときに、ふっと吉岡さんの短歌をおもいだして、「もうなんもわからへんくて」というはじまっている短歌なのですが、「東」=右という方向性がはっきりわかっているのがこの短歌のひとつの特徴です。だからある意味で非常にマリオ的・演劇的・英雄的な歌なんじゃないかとおもうんですね。
右にがつがつ進んでいくというのは、じぶんよりも強い者たちをさしおさえていくということなので、それだけ記号越境的であり、英雄的なんです。
だからある意味で、〈なにもわからない英雄〉、しかもバスに乗っていくという非主体性なので、〈なにもわからない非主体的英雄〉の歌なんじゃないかとおもうんです。
ただ「そして北へ」と段階をふんでるのもこの歌の特徴で、しかも語り手がちゃんとそれを〈認識〉できているのもこの歌の特徴です。「なんもわからへん」わりには方角をおさえている。ことこまかに。
ある意味では、「なんもわからへん」と非知的なんですが、方向感覚を的確にとらえるという〈的確な認識〉をもっている。これもある意味でマリオ的なんじゃないかとおもいます。
マリオは〈知識〉のゲームではなくて、〈方向〉をそのつどそのつどとらえながらひたすら進んでいくという、〈的確な認識〉のゲームだからです。
神話的英雄とはある意味で、そのような〈知〉からくるものではなくて、〈方向感覚の直進者〉としているのではないかとおもうのです(オデュッセウスや桃太郎がとりあえず記号的越境と直進をしていくように)。
だからバスに乗っているには乗っていることはたしかなんですが、このバスはどこかオデュッセウスや桃の航海のようでもあり、神話的な香りがする歌のようでもあるとおもうのです。〈ひだりきき〉の神がそれでも〈みぎ〉に直進しようとするかのように。
この吉岡さんの歌集のタイトルは、『ひだりききの機械』です。
ささやかな夜間飛行の右向きに眠るからだをひだりにむかす 吉岡太朗
両手とも左手なのでひだりがわに立たないとあなたと手をつなげない 〃
【右の帝国主義】
演劇で「上手(かみて)・下手(しもて)」っていうことばがありますよね。
「上手」は、右側。「下手」は、左側です。
で、舞台の右にいるか左にいるかで、そのひとの立場がそれだけで変わってくるのが上手・下手という概念です。
たとえば、落語で落語家のひとは、身分の高いひとに話しかけるときは右を向いて話します。つまり、上手=右のほうが、「上」なわけです。立場が。だからわたしは林家三平が「右」でも「左」でもなく、「前方」を特権化したのは彼のキャラクターを仕上げるうえでとても意味があることだったんじゃないかなともおもうんです。つまり、位階をとっぱらってただひたすらに聴衆=前に向くわけです。
これは、落語だけではなくて、たとえば富野由悠季の『∀ガンダム』というアニメでも、敵のギンガナムはいつも画面の「右」にいます。かれが「左」を位置するときは、かれがラスト、敗北するしゅんかんです。
また思い出してみれば、マリオもそうですよね。マリオは右に向かって進んでいくゲームですから、下手から上手へ、左から右へと進んでいくゲームです。進んでいくことが、上手からの敵=脅威と遭遇し、でも進むことが目的なので、敵をよけ、つぶし、はね、下手=左へ追いやることで、じぶんが上手=右を陣取りつづけていくのがマリオです。すなわり、マリオというのはいかに〈右〉を占有するか、という〈右の帝国主義〉のゲームです。
で、そういうことをかんがえていたときに、ふっと吉岡さんの短歌をおもいだして、「もうなんもわからへんくて」というはじまっている短歌なのですが、「東」=右という方向性がはっきりわかっているのがこの短歌のひとつの特徴です。だからある意味で非常にマリオ的・演劇的・英雄的な歌なんじゃないかとおもうんですね。
右にがつがつ進んでいくというのは、じぶんよりも強い者たちをさしおさえていくということなので、それだけ記号越境的であり、英雄的なんです。
だからある意味で、〈なにもわからない英雄〉、しかもバスに乗っていくという非主体性なので、〈なにもわからない非主体的英雄〉の歌なんじゃないかとおもうんです。
ただ「そして北へ」と段階をふんでるのもこの歌の特徴で、しかも語り手がちゃんとそれを〈認識〉できているのもこの歌の特徴です。「なんもわからへん」わりには方角をおさえている。ことこまかに。
ある意味では、「なんもわからへん」と非知的なんですが、方向感覚を的確にとらえるという〈的確な認識〉をもっている。これもある意味でマリオ的なんじゃないかとおもいます。
マリオは〈知識〉のゲームではなくて、〈方向〉をそのつどそのつどとらえながらひたすら進んでいくという、〈的確な認識〉のゲームだからです。
神話的英雄とはある意味で、そのような〈知〉からくるものではなくて、〈方向感覚の直進者〉としているのではないかとおもうのです(オデュッセウスや桃太郎がとりあえず記号的越境と直進をしていくように)。
だからバスに乗っているには乗っていることはたしかなんですが、このバスはどこかオデュッセウスや桃の航海のようでもあり、神話的な香りがする歌のようでもあるとおもうのです。〈ひだりきき〉の神がそれでも〈みぎ〉に直進しようとするかのように。
この吉岡さんの歌集のタイトルは、『ひだりききの機械』です。
ささやかな夜間飛行の右向きに眠るからだをひだりにむかす 吉岡太朗
両手とも左手なのでひだりがわに立たないとあなたと手をつなげない 〃
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