あとがきだもの、の〈だもの〉をめぐるあとがき。
- 2015/06/23
- 21:26
『WEP俳句通信』(86号・2015年6月)の「私の行動原理」において筑紫磐井さんから、わたしの感想を取り上げていただきました。筑紫さん、ありがとうございました!
さういふものに私はなりたくない 筑紫磐井
「さういふもの」は宮澤賢治のあまりにも有名な詩であるが、もう一つ「私は貝になりたい」を思い出す。主人公の死刑囚清水豊松が貝になりたいと言う前に、いろいろ列挙していく生き物の名前があった。そういうものにはなりたくなかったのだ。この句について川柳の柳本々々が「宮澤賢治のテクストはいつまでも権威化され、さまざまに横領され、結託され、たくさんの「サウイフモノニワタシハナリタイ」ひとたちが散文脈としてひきついでいくであろうときに、その停点として俳句を駆動しつづけること。あくまで〈停滞〉としての散文がもちえない出力を駆動させつづけること。ここにこの句のおもしろさがあるようにおもいます。」と書いているのは作者が納得した名解釈だ。
筑紫磐井「私の行動原理」『WEP俳句通信』86号・2015年6月
さいきんこの筑紫さんの句に対して、宮澤賢治でもバートルビーでもないかたちでかんがえていたのは、相田みつをさんとこの句をめぐる関係です。
相田みつをさんの、おそらく相田みつをさんを超えて、あまりにも有名になりすぎてしまった詩に「にんげんだもの」があります。
つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの
くるしいことだってあるさ 人間だもの
まようときだってあるさ 凡夫だもの
あやまちだってあるよ おれだもの
愚痴をこぼしたっていいがな
弱音をはいたっていいがな 人間だもの
たまには涙をみせたっていいがな 生きているんだもの
相田みつを
で、これがなぜ有名になったのかというと「にんげんだもの」といういまあるそのままのじぶんへの〈同一化〉の欲動をささえてくれる〈キャッチャー〉なフレーズだったのではないかとおもうんですね。
これは宮澤賢治とは違うベクトルで、こういう人間になりたい、ではなくて、いまこの人間でいい、という考え方です。
でもじつはこの詩は、そうじゃないんじゃないかなともおもうんです。決してむやみやたらにじぶんを肯定していいわけではなくて、めまぐるしく動いていくじぶんのなかで、その動きのなかにおいてはじぶんは「だもの」としてぎりぎり認めていいんだよと。動いているかぎりはつまずくわけですから、そういうじぶんが動いていくさなかにあってはじぶんは認めてはもいいんじゃないか、ただしつまずくくらいには運動性をもった自分でいようという、そういう詩なんではないかとおもうんです(別にこれは寝込んでてもいいんです。ふとんのなかでうんうん悩むのもひとつの運動性です。それは〈なにもしない〉ことをしているんですから)。
この相田さんの詩には、〈なにもしない〉ということはとくにここには実は描かれていなくて、一切肯定の詩、いまあるじぶんそのままでいい、ともいってはいないとおもうんです。
だから一見、筑紫さんの句と反対のベクトルを向いているようにみえる相田みつをの詩も、じつは、「さういふものに私はなりたくない」という運動のなかで〈つまずいていく〉詩としてもとらえなおせるのではないかとおもうわけです(ただ「だもの」という決めうち構文の方に意味の重心をとらえるとすぐに運動から静止へと反転する構造になっています)。
たとえばですね、「さういふものに私はなりたくないのだもの」と仮に筑紫さんの句を変えた場合、運動性が止まってしまうわけです。それは「さういふものになりたい」ひとなんです、むしろ。だもの、といってしまうと。
ただ、相田みつをさんは「だもの」を使いながら、〈詩〉という長さをもった形式によってそれをぎりぎりずらしていって運動性をつくっているようにもおもうんです。
そして実はあらゆる句や歌や詩は、いかに解釈されようとも「さういふものに私はなりたくない」といいつづけるものなのではないかと、おもうのです。解釈しきれない残余や剰余をつねにのこすものとして。
だからこそ、解釈してもいいのだともおもうのです。句や歌や詩はみかけよりもタフだし、「私はなりたくない」といいつづけるものであるから。
俳諧はほとんどことばすこし虚子 筑紫磐井
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