【こわい川柳 第四十五話】真夜中の廊下に母が立っていた 田村ひろ子
- 2015/06/25
- 12:00
真夜中の廊下に母が立っていた 田村ひろ子
【〈立つ〉のは〈だれ〉か】
田村ひろ子さんの句集『夢のしっぽ』からの一句です。
シンプルでいてごくふつうの描写かもしれないのに、なぜかとても〈こわさ〉を感じる一句ですよね。
で、ですね。この句とぜひいっしょに読んでみたいのが、渡辺白泉の有名なこの句です。
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉
以前、この白泉の句の感想を書いたことがあるのですが、この句ではおそらく〈立つ〉という行為が大切なんだとおもうんですね。
横たわっていないわけです。軍隊という場所はいかに〈立つ身体〉を〈主体〉的につくるかという規律訓練の場所ですが、この句では「戦争」も規律訓練のもと身体化されている。
で、この〈立つ〉はある意味で、〈父性原理〉だともおもうんです。〈立てない〉〈横になる〉〈寝込む〉とはどういうことかというと〈国民〉として男性化・主体化できない、逆にいえば〈女性ジェンダー化〉がなされていく。
たとえばマネの『オランピア』やティツィアーノ『ウルビーノのヴィーナス』のような〈横たわる裸婦〉の系譜の〈ヨコ〉にはジェンダーバイアスがあるとおもうんですよ。あるいは死体が朽ちていく過程を描いた仏教絵画『九相図』がなぜ〈女性〉だったのか。
そしてこの〈ヨコになる女性たち〉にたいして、クラーク像や西郷隆盛像が直立している〈タテの男たち〉の系譜がある。
あるいはたとえばタテにもヨコにもなれないとして、たとえば太宰治のビジュアルイメージが〈頬杖〉(=ある意味では荒木飛呂彦=ジョジョ的な傾いだ身体)として流通していくのも、そこには〈男性主体〉になれない〈女性ジェンダー化〉されそうな〈主体〉の屈折があったからではないかともおもうんです。
で、田村さんの句はそうした白泉の父性原理からの〈立つ〉句を、母性原理としての〈立つ〉から読み返した句なんじゃないかとおもうんです。
だから、この句を、男性ジェンダーを抱いているひとが読むと、それがおびやかされそうで、〈こわい〉のではないか、と。守ろうとしてきたジェンダーが反転してしまうから。
そのジェンダーの葛藤、ジェンダーのながい〈戦争〉がこの句の〈こわさ〉として打ち出されているようにもおもうのです。
ジェンダーを覗き返される〈こわさ〉として。
深淵を覗けば覗き返す花 田村ひろ子
【〈立つ〉のは〈だれ〉か】
田村ひろ子さんの句集『夢のしっぽ』からの一句です。
シンプルでいてごくふつうの描写かもしれないのに、なぜかとても〈こわさ〉を感じる一句ですよね。
で、ですね。この句とぜひいっしょに読んでみたいのが、渡辺白泉の有名なこの句です。
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉
以前、この白泉の句の感想を書いたことがあるのですが、この句ではおそらく〈立つ〉という行為が大切なんだとおもうんですね。
横たわっていないわけです。軍隊という場所はいかに〈立つ身体〉を〈主体〉的につくるかという規律訓練の場所ですが、この句では「戦争」も規律訓練のもと身体化されている。
で、この〈立つ〉はある意味で、〈父性原理〉だともおもうんです。〈立てない〉〈横になる〉〈寝込む〉とはどういうことかというと〈国民〉として男性化・主体化できない、逆にいえば〈女性ジェンダー化〉がなされていく。
たとえばマネの『オランピア』やティツィアーノ『ウルビーノのヴィーナス』のような〈横たわる裸婦〉の系譜の〈ヨコ〉にはジェンダーバイアスがあるとおもうんですよ。あるいは死体が朽ちていく過程を描いた仏教絵画『九相図』がなぜ〈女性〉だったのか。
そしてこの〈ヨコになる女性たち〉にたいして、クラーク像や西郷隆盛像が直立している〈タテの男たち〉の系譜がある。
あるいはたとえばタテにもヨコにもなれないとして、たとえば太宰治のビジュアルイメージが〈頬杖〉(=ある意味では荒木飛呂彦=ジョジョ的な傾いだ身体)として流通していくのも、そこには〈男性主体〉になれない〈女性ジェンダー化〉されそうな〈主体〉の屈折があったからではないかともおもうんです。
で、田村さんの句はそうした白泉の父性原理からの〈立つ〉句を、母性原理としての〈立つ〉から読み返した句なんじゃないかとおもうんです。
だから、この句を、男性ジェンダーを抱いているひとが読むと、それがおびやかされそうで、〈こわい〉のではないか、と。守ろうとしてきたジェンダーが反転してしまうから。
そのジェンダーの葛藤、ジェンダーのながい〈戦争〉がこの句の〈こわさ〉として打ち出されているようにもおもうのです。
ジェンダーを覗き返される〈こわさ〉として。
深淵を覗けば覗き返す花 田村ひろ子
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